ことばと感性
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は小説家で詩人、小池昌代のエッセイを読みながら、現在はなんのためにあるのかについて考えてみます。
彼女の作品をお読みになったことがあるでしょうか。
この機会に小説や詩集などを手にとってみるのもいいですね。
人生の全てはふとした出会いから始まります。
好奇心が縁を作り出すのです。
あらゆる場面にすべて関わるのは無理です。
自分の琴線に触れるもの。
そこにこそ、可能性の泉があるのではないでしょうか。
わかりやすくいってしまえば、興味や関心ということになります。

ぼくの場合は圧倒的に「ことば」ですね。
響き、刺さることばをいつも求めています。
特に詩人の感性は、研ぎ澄まされているのです。
ふと触れただけで、血がさっと滲むとでもいったらいいのでしょうか。
あらゆる瞬間にそうした出会いをと心がけています。
彼女の今回の文章も教科書に所収されていたものです。
編纂している先生方の慧眼には頭が下がります。
タイトルは「カフェの開店準備」です。
何気なく目にしたカフェの中で忙しそうに片づけをしている店員さんの立ち居振る舞いの中に、現在の時間だけが持つ貴重な横顔を見て取ったという話です。
お客が来店するまでの時間の中に凝縮された、彼女だけの「生」をつよく感じたという文章なのです。
当然、それがかけがえのないものであることも。
もちろん、この時の感覚は彼女自身の中にある「生」の意味を強くあぶり出しました。
一部だけですが、ここに転載します。
現在の持つ意味
人が来ることになった、家をきれいにしなければならない。
そういうとき、とりあえず掃除を始めるけれど、いったん窓を磨きだすと、磨くことが目的になってしまう。
汚れが落ちる、そのことが楽しくなって、夢中になって作業を終えることがある。
汚れを落とすことには、そういう構造があるようです。
でも、考えてみれば料理もそうですし、ペンキを塗ることもそうだ。
詩を書くことも同じです。
締め切りがあって、雑誌に掲載されるのは単なる結果、書いている間はそのことに夢中。
私は長い間 アマチュアのオーケストラでビオラを弾いていましたが、楽器の演奏がまさにそうです。

弾くという行為は、どんな部分も、弾く、その一瞬のために行動が起こされる。
目的と行為が一瞬ごとにぴったりと一致している。
だから、言葉のうえでは、本番に向けて練習するという言い方はあっても、実際は練習のための練習。
もっと言えば、弾くために弾き、楽しむということになり、練習とか本番(ただ光が当たっているだけで)とか、そういう分別など本質的には無効だ、そういう思いを持ったものです。
私たちは現在という1点、にいつも自分を投げ出すことしかできなくて、未来の時間のために、現在を使うということに耐えられないのではないか。
それは現在を空っぽにすることだから。
例えば大学に受かるためだけに、受験勉強することには耐えられない。
勉強することそのものの中に目的を持たなければ、とても、やっていけるものではない。
別の言い方をすれば、未来も過去もなくあるのは現在だけ。
その現在という1点に、生も死も、何もかもがある。
そうすると、世の中のあらゆる行為について、どれが準備で、練習で、どれが本番だ、開店だ、ということは本質的にはどうでもよくなります。
全てがいつも本番ということになる。(中略)
行為を習慣化しないためには、行為そのものの中に、常に喜びを発見することが必要になってきます
難しいことです。
行為の目的と行為そのものが分裂していけばいくほど、自分も分裂し辛さが増していくことになるのでしょう。(中略)
日常生活は、そんなしぶとい挑戦を、いつも私に突きつけてきます
小池昌代「カフェの開店準備」
目的と行為
実に柔らかい文章ですね。
彼女が述べようとしていることの密度の濃さを強く感じます。
小池昌代のこの文章には、「目的」と「行為」が分離したときに生まれる苦しさがしめされていると感じました。
逆にいえば、それが一致した瞬間に「生」は以前よりも輝きを増すのです。

生きることの意味が、静かに描かれているように感じます。
特に印象的なのは、「未来の時間のために、現在を使うということに耐えられない」という感覚です。
親は子供の未来のためだと信じて、習い事をさせたり、我慢を強いたりもします。
しかし人間は未来のために、今を我慢できるものなのか。
あとで報われるといわれて、素直に聞き届けることができるのでしょうか。
これは非常に複雑な問題です。
よく考えてみると、人はその時だけにかけることしかできないのかもしれません。
つまり掃除でも、楽器の演奏でも、勉強でも、「いまやっていること」そのものの中に快さや意味が見つからないと、現在が空洞化してしまうのです。
退屈な時間の堆積の中に自分を閉じ込めることは、本来不可能なのです。
なんの意味もない行為に、人は時間を費やせないのかもしれません。
それが楽しいのかどうかという刹那の喜びを軽くみてはいけないのです。
行為が意味するもの
よく考えてみたら、練習はつねに本番なのかもしれません。
練習のための練習をいくら繰り返したところで、空しいです。
だから窓磨きは、来客準備という手段から離れて、「磨くことそのもの」の喜びへ移行するのです。
ビオラの練習も、本番のためという前提を超えて、弾く瞬間が完結した時間になります。
時間の感覚は、圧倒的な現実感をもたなくては意味をもちません。
芸の世界ではよく「本息」という言葉を使います。
本番と全く同じ力をそこにこめるのです。
「ゲネプロ」という表現もありますね。
これは「ゲネラルプローベ」の略で、総仕上げの通し稽古をさします。
本番と準備が裏と表に張り付いた緊張と喜びに満ちたものです。
ここで筆者が言いたかったことは自明です。
生は「未来へ向かう通路」ではなく、「現在の連続」としてしか存在しない、という感覚なのです。
日常の裏側にある光景には新鮮な好奇心がよく似合うという表現も、その文脈で読むと実感があります。
習慣化された日常は、目的だけで動き始めると急速に色を失うのです。
ここで大切なことは行為の内部へ好奇心を向けることです。

その瞬間から日常の裏側が見えてきます。
それが最後に示された「行為の目的と行為そのものが分裂していけばいくほど、自分も分裂し辛さが増していく」という表現の意味です。
それはつらいのかと言ったら、単純には言い切れません。
そこにこそ、喜びがあるからです。
単純に未来を声高に叫び、現在を消費する感覚が強まるほど、現在地にいる実感が薄れていくのは明らかです。
今を生きる人間は自らの行為の中に現在を取り戻せるのでしょうか。
「いつか」などという茫漠とした未来はどこにもないのかもしれません。
「生きる」ことの意味が拡散しつつある今、このエッセイの意味は想像以上に重いと感じます。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
