「沈黙とことば」一見対立するようなものの中に濃密な関係が潜むという発見

学び

会話の不在と沈黙の意味

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回はことばについて考えてみます。

小論文を書くとき、「二項対立」を重視しなさいとよく言います。

東洋と西洋とか、近代以降と近代以前とか、生と死など、いくらでもこの種のテーマはありますね。

確かに、両者の大きな違いに着目して文章をまとめると、大変にわかりやすくなるのです。

論文のまとめ方としては、最適な方法の1つです。

しかしこれをあまりに強くやりすぎると、文章は死んでしまうのです。

だから書くことは難しいと言わざるを得ません。

なぜ、そんなことが起こるのか。

理由がわかりますか。

主要な論点は確かにその対立の中にあると言えます。

しかしその周縁には、それだけでは言い切れないグレーな部分がたくさんあるのです。

逆にいえば、その陰翳をきちんと炙り出さない限り、本当に大切な側面はみえてきません。

論文になるべき本質はむしろ、その周縁の中にあると言い切っていいのではないでしょうか。

たとえば、道徳的な視点からいえば、「善い」ことをすればそのあとに「幸福」が訪れるというのが基本です。

しかし現実は「悪い」ことの中に、むしろ人間としての本質が滲み出る要素がたくさんあったりもするのです。

そこからのし上がっていく構造が、多くの小説に登場します。

マイナスを二乗すると、プラスになるという構造と似ているのかもしれません。

というより、多くの創作はそうした悪の構造で成り立っています。

「死」があるからこそ、「生」がより輝くという構図と同様です。

この論点をひろげていったとき、1つの文章に突き当たりました。

これこそが二項対立の頂点ではないでしょうか。

まさに「言葉と沈黙」です。

課題文を読んでから、設問の内容を考えてみましょう。

誰もが感じていることがらをみごとに捉えています。

課題文

いまふたりのひとがいる。

そのあいだに交わされることばはない。

ふたりのあいだの沈黙。

それが深い沈黙、厚い沈黙とでもいうべきものであって、会話の不在でないというのはどうしてなのだろう。

ことばの不在が空虚ではなく、おしゃべり以上に充溢していることがあるのは、どうしてなのか。

ひとはふつうことばの不在を懼れる。

ことばが途切れたとき、そしてどちらからもとっさに不在を埋めることばが出てこないときの気まずい沈黙。

そのとき、なにかそれまでの関係がすべて作りものであったかのように、色褪せてくる。

他者の親密な感触というものが、あっけなく崩れる。

その不在の前で、じぶんの存在すらも、へちまのようにすかすかになっている。

ひとはこういう空虚に耐えきれず、どうにかしてことばを紡ぎだそうとする。

だれが話しているのかじぶんでもよくわからないようなことばが、次から次へと虚空に向かって打ち放たれる。

が、そのことばは相手のうちに着地することなく、かといってじぶんの元へ戻ってくるわけでもなく、ただ空しい軌跡を描くばかり。

そして、ことばではなく、その不在だけがしらじらとあらわになってくる。

まるで唾が枯れたときにそれでも唾を吐きだそうとして、血痰を出してしまうかのように。

cherylholt / Pixabay

そしてじぶんは、一刻でもはやく、その場を逃れたがっている。

わたしたちがいま失いかけているのは「話しあい」などではなくて「黙りあい」なのではないか。

かつて寺山修司はそう問うた。

そして、週刊誌やテレビなどのメディアをとおして大きなコミュニケーションが膨れあがればあがるほど「沈黙は死んでゆく」「黙っていられない」ひとたちが増えてゆく、として、つぎのように書いた。

(中略)

しゃべればしゃべるほど空しい気分になる経験、それを押し殺してしゃべるのが人生だ、というつもりはないが、ことばがまことのそれであって空語ではないという確信を、ひとはどういうときに得るのだろうか。

意が伝わらないもどかしさにしだいに声を荒げるひと、かれの声が大きくなるにつれて、そのもどかしさは昂じても消えることはない。

逆に、深い沈黙のなかで、ひとは語りつくすことに劣らぬ濃密な交感にひたることもある。

R・D・レインという精神科医が『自己と他者』のなかでこんな話を報告している。

ある看護師が、ひとりの、いくらか緊張病がかった分裂病患者の世話をしていた。

彼らが顔を合わせてしばらくしてから、看護師は患者に一杯のお茶を与えた。

この慢性の精神病患者は、お茶を飲みながら、こういった。

だれかがわたしに一杯のお茶をくださったなんて、これが生まれてはじめてです。

『鷲田清一 聴くことの力』

設問

問いは実に明快です。

「沈黙と言葉」の折り合いについて、考えたことを800字で書きなさいというものです。

考えれば考えるほど、難しいテーマですね。

どちらが優位に立っているのかを比べなさいという問題ではありません。

「空虚」と「充足感」がどこからくるものであるのか。

その根拠は何か。

沈黙の時間が深い充足感をもたらしたということの真意は何を意味するのでしょうか。

ヒントは必ず課題文の中にあります。

それを拾い上げる正確な目が必要なのです。

いくつか考えられますが、ポイントになるのは入院していた看護師と患者の態度にあらわれた沈黙とことばです。

ことばと沈黙は対立するものではないという基本を抑えつつ、沈黙の持つ深いおもいやりの果てに、ことばを発したという行為をどう認識するかという論点を示した方がいいでしょう。

ことばに魂が吹き込まれる瞬間はどういうときか。

沈黙とことばが互いに十分交感しあったとき、自然にあふれるように言葉が口をついて出るのかもしれません。

それが沈黙と同じエネルギーを持っているとしたら、これこそが理想の姿なのでしょう。

かつて日本を代表する作曲家、武満徹のエッセイに『音、沈黙と測りあえるほどに』というのがありました。

自分にとって真実の音楽を追求し続けた作曲家です。

武満徹はつねに耳を澄まし続けた人だと言われています。

沈黙と拮抗する音楽という概念はかなり難解です。

そこから何を導き出せばいいのか。

音と沈黙というテーマは、ことばと沈黙という内容とも重なっています。

ある意味、詩人の言葉に通じる感受性と同じ質のものなのかもしれません。

わずか800字の中に全ての感覚を導き入れるのは難しいと思われます。

それだけに、書き手の力量が試されます。

筆者のタイトルには「聴く力」とあります。

全神経を集中して聴き続ける努力の中にしか、人と人とを結びつける共感は生まれないと考えることは可能でしょうか。

ことばの力

教師という仕事はことばを使います。

国語という教科はとくに感受性に訴える要素が大きいです。

それだけに語彙力だけでなく、その底にある人間であることへの懼れに支えられているといっても過言ではありません。

安易に知ったことだけを伝えているつもりでも、生徒は教師の内面を見ています。

発せられることばは、わずかに水の表面に浮かぶ物体の10%に過ぎません。

実は90%を占める水の下に沈んでいる部分が、その人の心のことばを支えているのです。

それは喜びや悲しみを含む経験であったり、悔恨であったりします。

真に響くことばはそれほど多くはありません。

今日の授業はよかったなどと思えることは、年に数回あればいい方でした。

それだけに、日々の研鑽が必要であることは言うまでもありません。

難しくいえば、通奏低音が鳴り続けていなければ、本当の意味のコミュニケーシ小論文のョンは成り立たないのです。

多くを語ればいいというのでもない。

沈黙に近い時間の堆積も、そこには必要なのです。

どの瞬間にどのことばや沈黙が必要になるのか。

それはある意味、本能的な判断に頼らざるを得ないところがあります。

皮膚感覚で紡ぐ、とでもいった方がいいかもしれません。

他者である生徒が望んでいるものがどこにあるのか。

自分自身が試され続ける時間の連続です。

今回の文章を読んでいて、小論文を書くことの難しさをしみじみと感じました。

採点者も容易ではありません。

彼ら自身が試されているのです。

そのことを自覚せずに論文を審査するのには無理があります。

内容のあるいい文章だけに、いくつかの感想を最後に書きました。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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