枕草子のかたち
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は清少納言(966年~1025年)が平安時代中期に書いた『枕草子』を読みます。
テーマは雨の夜にやってくる男性の本心を、どのように考えればいいかというものです。
『枕草子』は中宮定子に仕えていた清少納言が書いた、日本最古の随筆として知られています。
高校でもさまざまなジャンルの話題を取り上げます。
『徒然草』『方丈記』とあわせて学べば、日本人の美意識の原型がみえてきます。
何度読んでも飽きることのない名文ばかりですね。
鋭い観察眼には、思わず目を見張ります。
内容はごく普通の日記の部分もあれば、彼女の美意識に合致するものや、全くしないものなど様々です。
女性特有の細やかな視点で書かれているため、AI全盛の現代に読んでも非常に新鮮です。
自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力がみごとに反映されたエッセイになっています。
清少納言は小さくて美しいものが本当に好きですね。
音楽、美術、歌などに対する造詣が深い人間に対する敬意も厚いものがあります。
逆にいえば、その正反対に位置するものが嫌いなのです。
くどいもの、しつこいものは最も避けたいものの部類に入ります。

それが彼女を理解する時のキーワードにもなっているのです。
今回は雨の夜にやってくる男の品定めとでもいっていい文章です。
女の品定めといえば、『源氏物語』に登場する「雨夜の品定め」が有名でしょう。
興味のある人は、そこだけでも読む価値があります。
『源氏物語』にはさまざまな女性が次々と登場します。
1人1人イメージを浮かべながら、読み進むのも楽しみといえます。
この章段では、その反対に女性の立場からみた男性の姿が描かれます。
当時の貴族たちの婚姻の形を知れば、男性が優位だったのは明らかです。
女性は家から出ることもなく、実家に住んだまま結婚しました。
そこへ男が通ってくるのです。
3日間通えば、婚姻は成立し、男性が通わなくなれば、自然に離婚が成立してしまいます
女性は常に「待つ」存在でした。
それだけに手紙や歌などを普段よこす男性が、雨の夜にまでやってくるという現実は重く受け止めなければなりません。
結婚は女性にとって、大きな意味を持っていました。
本文
翌朝(つとめて)、例の廂に人の物言ふを聞けば、「雨いみじう降るをりに来たる人なむ、あはれなる。
日ごろおぼつかなく、つらき事もありとも、さて濡れて来たらむは、憂き事も皆忘れぬべし」とは、などて言ふにかあらむ。
さあらむを、昨夜も、昨日の夜も、そがあなたの夜も、すべてこのころ、うちしきり見ゆる人の、今宵いみじからむ雨にさはらで来たらむは、なほ一夜も隔てじと思ふなめりと、あはれなりなむ。
さらで、日ごろも見えず、おぼつかなくて過ぐさむ人の、かかる折にしも来むは、更に心ざしのあるにはせじ、とこそおぼゆれ。

人の心々なるものなればにや、物見知り、思ひ知りたる女の、心ありと見ゆるなどをかたらひて、あまた行く所もあり、もとよりのよすがなどもあれば、しげくも見えぬを、「なほさるいみじかりし折に来たりし」など、人にも語り継がせ、ほめられむと思ふ人のしわざにや。
それも、無下に心ざしなからむには、げに、何しにかは、作りごとにても、見えむとも思はむ。
されど、雨の降る時は、ただむつかしう、今朝まで晴々しかりつる空ともおぼえず、にくくて、いみじき細殿(ほそどの)、めでたき所ともおぼえず。まいて、いとさらぬ家などは、疾く降りやみねかしとこそ、おぼゆれ。
現代語訳
翌朝、いつもの廂のところで、人が話しているのを耳にしました。
「雨がひどく降っている時に訪れて来た男には、かなり心が動くもの。何日も待ち遠しく、耐え難いことがあっても、濡れそぼった姿で来てくれたら、つらいこともみんな忘れてしまうし…」
などと、どうしてそんなふうに簡単に言うのでしょうか。
確かにそういうこともあるかもしれません。
昨夜も、昨日の昨夜も、その前の昨夜も、とにかくこの頃頻繁に訪れてくる男が、今夜もひどい雨を物ともしないで来たとしたら。

やはり一晩も離れたくない、と思ってくれているようだと、嬉しくなるのに違いはないれど。
ところが、そうではなくて、普段、まめに訪れもしないで、女を不安にさせて過ごしている男がいたとします。
雨降りの日に限ってわざわざ訪ねて来たからといって、けっして愛情があるという証拠にはならないと、わたしなら思うんですけど。
でもこれも人それぞれの考えの違いなのかしら。
経験豊かで、思慮もある女性で、情趣もわかると思えるような人と関係し、ほかにもたくさん通う女性の所があり、もともと妻などもあり、頻繁にも通って来ない男の場合。
「それでも無理してひどい雨降りの日にやって来たのです」
などと、人に言わせて噂を広め、褒められようと思うのが、男というものの性なんです。
それもまったく愛情のない女性のところには、実際、そんな作り事までして、逢おうとは思わないでしょうけれどね。
清少納言の考えは
彼女はこの話の後にこんなことを書いています。
雨が降る時は、ただ鬱陶しくて、嫌だというのです。
元々、あまり好きではなかったのかもしれません。
今朝まで晴れ晴れとしていた空が急に雲で隠れ、そこから降ってくる雨は憎らしいものに見えると書いています。
御殿の立派な細殿を素晴らしくない場所にかえてしまうものが、雨でした。
早くやんでくれればいいのにといつも思っていたようです。
『枕草子』の中には雪にからんだ章段がいつくもあります。
香炉峰の雪の話などは、必ず授業でも取り上げますね。
香炉峰下、新たに山居を卜し、草堂初めて成り、偶たま東壁に題す
日高く眠り足りて猶起くるにもの慵し
小閣に衾を重ねて寒さを怕れず
遺愛寺の鐘は枕を欹てて聴き
香炉峰の雪は簾を撥げて看る
匡蘆は便ち是れ名を逃るるの地
司馬は仍お老いを送るの官為り
心泰く身寧きは是れ帰する処
故郷 何ぞ独り長安にのみ在らんや
白楽天の詩を心の中で口ずさみながら、簾をあげて定子中宮にアピールした時の、清少納言の表情が目に見えるようです。

このトピックスは別の記事にありますので、ぜひお読みください。
それに比べると雨の方はどうも分が悪いようです。
特にわざわざ雨の日に、女性のもとを訪ね、それを大きな声で広めようとする男の態度は最低だと思ったに違いないのです。
彼女はさりげなさを特に好みました。
わざとらしいジェスチャーまで示して、女性の心を手に入れようとする男の浅薄さが嫌いだったのです。
知性はもっと深いところに潜めておくべきだと考えたのでしょう。
しかし彼女がいくらそう思っても、簡単に男の手口にのってしまう女房たちもいたのです。
そこにある種の悲しみを見出しました。
男社会の中を生き抜く女の悲しさを見たのかもしれません。
さまざまな手練手管を使って、女性を籠絡しようとした男たちの様子も見事に描かれています。
当時の人びとの生きざまは、今にも十分通用します。
『枕草子』が現代性を十分に持ち得ていると言われている所以なのです。
落語にも雨の夜、花魁に会うため、わざわざ吉原に通うという似たような噺があります。
男女の関係は、時代を超えて永遠なのでしょうか。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
