「愛嬌こぼるる女御・建春門院中納言日記」平安の時代のきらびやかな回想録

建春門院の日常

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は後白河天皇の女御で、高倉天皇の生母でもあった建春門院の日々の様子を綴った鎌倉前期の日記を紹介します。

筆者は建春門院中納言と呼ばれていた女房です。

建春門院自身ではありません。

藤原俊成の娘で定家の姉にあたる人です。

建保7年(1219)に成立しました。

彼女が老後に女房としてすごした時代を回想したものです。

全編にわたり、建春門院への愛着と追慕を語っています。

院政末期から鎌倉初頭頃の宮中生活を知るには恰好の史料です。

この本の巻頭には次のような和歌が掲げられています。

たまきはる いのちをあだに ききしかど きみこひわぶる としはへにけり

意味は「命ははかないものと聞いていたけれど 亡きご主人を慕って悲しむ日々があっという間にやってきてしまったことだ」というものです。

この歌にちなんで『たまきはる』という別名もこの作品に付けられました。

「たまきはる」とは魂が極まるという意味です。

人の魂には極まりがあるという考え方からきた表現なのです。

女御のすばらしさをたたえた文章が、読む人に感動を与えます。

もともと作品のタイトルにあたるものはありませんでした。

通常は『建春門院中納言日記』と呼ばれています。

日記文学に分類されますが、厳密に日々の記述というわけではありません。

筆者が60歳ごろの回想録なのです。

内容は平安時代末期から鎌倉時代初期にわたります。

その大半は建春門院に仕えた平安時代の宮廷生活の追憶です。

この作品は彼女の自筆ではなく、口述されたものなのです。

養女に筆記させた後、それを彼女自身がまとめたものが主だと言われています

その後、採用しなかった部分を弟の藤原定家がまとめて筆記したものも伝わっています。

最晩年になってこうした回想録がなぜ書かれたのでしょうか。

その理由を彼女は序段に書き記しています。

この時代になると、すでに平安の貴族文化が次第に過去のものになりつつありました。

当時の様子を知っている人も少なくなっていたのです。

若い女房たちは、以前の人びとの暮らし方に憧れを抱いていました。

そこで話をせがまれ、人生の最後にあれこれと語ってきかせたというのが、最大の動機なのです。

本文

御前許されぬ人は、近く候ふ人々の、「御前になる」と告ぐるに、立ち退きて、障子の外にゐる。

夏は扇ども取り散らして、当時候ふ人々、一つづつ賜はりなどす。

かやうの御遊びごと果てぬれば、やがて、「あな苦し」とて、うち臥させ給ふをりもあり。

かりそめに御殿籠もりたりし御さまなどまで、ありがたくうつくしうもおはしまししかな。

よそに推し量りしは、ことごとしくよそほしかるべきほどの御身ぞかし。

夏など、うちおどろかせ給ひて、暑やとて、袷の御小袖の御胸を引き開けて、ふたふたと扇がせ給ひし御姿などまで、誰もすることのあな好ましと見えしは、ただ、人によることなんめり。

愛敬こぼるばかりとかや、物語などに書きつけたるは、かやうなるにや。

あながちに、匂ひうつくしげなる御側顔の言ふよしなく白きに、御額髪のはらはらとこぼれかかりたりしひまひまに、御色合の映えて見えしなどは、この世にまた、さる類をこそ見ね。

おほかたの世のまつりごとを始め、はかなきほどのことまで、御心に任せぬことなしと、人も思ひ言ふめりき。

まことに、おはしまさで後の世の中を思ひ合はするにも、かしこかりける御心ひとつに、なべての世も静かなりけるを、ただ明け暮れは、遊びたはぶれよりほかのことなく、しばしのほど見参らせ聞くほども思ふことなく、うち笑まるるやうにのみもてなして明かし暮らさせ給ひし御心のほども、後に思へば、人に異なりけり。

現代語訳

女御さまのお目通りを許されない女房は、女御の近くにお仕えする女房たちが、「お出ましです」と告げると、退いて障子の外に座ります。

夏は扇をひろげて描かれた絵を、皆で見たりもしました。

女房たちは、気にいった扇をいただいたこともありました。

このようなお遊びごとが終わってしまうと、そのまま、女御は「ああ苦しい」とおっしゃって、横におなりになる時もあります。

しばらくの間、おやすみになっていた御様子などまで、めったにないほどかわいらしくもいらっしゃったことです。

お目通り前に想像したのは、仰々しく厳めしいくらいの御身分の方であるということでした。

しかし実際にお目にかかると、夏など、女御さまはふとお目覚めになって、「暑いわ」とおっしゃいます。

袷の御小袖の御胸を開けて、はたはたとあおぎなさったお姿などまで、誰でもすることが妙に心ひかれると感じたものです。

ひたすら女御さまのお人柄によることであったに違いありません。

優しい魅力があふれるなどと、いろいろな物語に書いてあるのは、このような時の様子を言うのでしょうか

ひたすら、美しさがかわいらしく、白い肌に、御髪がはらはらとこぼれかかり、御顔色が際立って見えた様子などは、この世でほかに例を見ないほどのことでした。

おおよそ世の政治をはじめとして、ちょっとした程度のことまで、女御さまのお気持ちの通りにならないことはないと、人も思い、言うようでした。

本当に、女御様がお亡くなりになって後の世の中が騒がしくなったことを考え合わせるにつけても、思慮深かったお心一つで、日ごろの暮らしも穏やかであったことを思い出されます。

ただ明け暮れは、思い悩むことなく女御さまを見申し上げ、話を聞く時も、こちらが思い悩むことなどありませんでした。

自然とほほ笑むようにばかり振る舞って、明かし暮らしなさったお心のほども、後で思うと、普通の人とは違い、格別だったのです。

建春門院の時代

建春門院に仕えた作者には八条院中納言という別の女房名もあります。

定家の『明月記』では「健御前」などとも記されています。

1206年(建永1)、彼女は50歳で出家しました。

日記は、2度の宮仕えを主とした40余年にわたる回想録です。

建春門院が亡くなったのは1176年のことでした。

日記を読んでいると、何をしても女御は美しい人だったと讃えている場面が目につきます。

お目通りする前は仰々しくいかめしそうだと思っていたものの、実際に会ってみると、優美で人柄もすばらしい女性だったようです。

女御の賢明さが世の中を平穏に保っていたものの、本人はそんな様子を少しも見せず、人の心を和ませるように過ごしていたのです。

ところが建春門院が亡くなった翌1177年、いわゆる安元の大火と呼ばれる火災がありました。

平安京の3分の1が焼失してしまったのです。

そのことは『方丈記』や『平家物語』にも記されています。

また同じ年、藤原成親、僧・俊寛らが京都郊外の鹿ケ谷で平家打倒をはかる事件がありました。

世にいう、鹿ケ谷の変がそれです。

結果は事前に露見し、蜂起は失敗に終わりました。

「おはしまさでのちの世の中」とは、これらを指していると思われます。

時代は急速にその形をかえつつあったのです。

やがて平家は壇ノ浦までの道のりをたどり、滅亡していきます。

の武士の時代がやってきつつあったのです。

源氏の勃興ですね。

平安貴族の華麗な話が遠い過去の物語になるまで、それほどの時間はかかりませんでした。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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