今物語
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回はあまり知られていないタイトルの本を取り上げます。
鎌倉時代の説話集『今物語』がそれです。
歌人として名の知られていた鎌倉前期の藤原信実(1176~1266年)が編んだといわれています。
大和絵の肖像画の名手としても知られていました。
この本の内容を高校の授業で取り上げた経験はありません。
入試の問題で、ときたま見かけたぐらいでしょうか。
書名は「当代の話を集めた」という程度の意味だと考えてください。
鳥羽院政期から鎌倉時代初期までがその対象です。
歌物語風の説話を中心にして、宮中にあったことがらを和文体で記しています。
ここでは藤原家隆と定家という当代随一の歌人の心中を読み取ろうとした、興味深い話が紹介されています。
家隆は定家の父、俊成の門人で定家と並び称せられた歌人です。
家隆の作で最も有名なのは、百人一首に選ばれたこの和歌でしょう。
風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける
風がそよそよと吹いて楢の木の葉を揺らしている。
この小川の夕暮れは、すっかり秋の気配となっているが六月祓(みなづきばらえ)のみそぎの行事だけが、夏であることの証しなのだという歌です。
ここに登場する「なら」は地名ではありません。
樹木の名前です。
楢(なら)の木をさします。
小川というのは、京都市北区の上賀茂神社の境内を流れている御手洗川(みたらしがわ)を指しています。
毎年旧暦の6月に夏越の祓(なごしのはらえ)があり、罪や穢れを祓い落とす行事が行われていました。
定家の和歌
一方、定家の歌で有名なものは次の一首です。
これも百人一首に収められています。
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩(もしお)の身もこがれつつ
松帆の浦の夕なぎの時に焼いている藻塩のように、私の身は来てはくれない人を想って、恋い焦がれているのです、というのが歌の意味です。
藻塩というのは昔からある塩の製法の1つです。
海藻に海水をかけて干します。
それが乾いたところで焼いて水に溶かし、さらに煮詰めて塩を精製しました。
恋人を待つ女性の心の様子を「焼く」とか「身もこがれる」などという言葉と縁のある表現として使ったのです。
定家に関してはつい先日、自筆の著書が冷泉家の書庫からみつかったという大きなニュースがありましたね。
古今和歌集の注釈書「顕注密勘」の自筆原本です。
この2人の話を摂政殿(藤原良経)がそれぞれ聞いているという構成が、なかなかユニークです。
良経が、家隆と定家に誰が一番良い歌詠みかと聞いたら、どちらも明確には答えないで、家隆は定家の歌を、定家は家隆の歌を座右のものにしているということを暗に良経に告げたのです。
ここにこの話のポイントがあります。
まさに達人同士の逸話といっていいでしょう。
読んでいても、気持ちが思わず爽やかになります。
達人は達人の心を知るという言葉そのものです。
本文
近ごろ、和歌の道、ことにもてなされしかば、内裏・仙洞・摂政家、いづれもとりどりに底を極めさせ給へり。
臣下あまた聞こえし中に、治部卿定家、宮内卿家隆とて、家の風絶ゆることなく、その道に名を得たりし人々なりしかば、この二人にはいづれも及ばざりけるに、あるとき、摂政殿、宮内卿を召して、
「当時、正しき歌よみ多く聞こゆる中に、いづれかすぐれ侍る。心に思はむやう、ありのままに」
と御尋ねありければ、「いづれともわきがたく候ふ」とばかり申して、思ふやうありげなるを、
「いかに、いかに」と、あながちに問はせ給ひければ、懐より畳紙(たとうがみ)を落して、やがて出でにけり。
御覧ぜられければ、
明けばまた秋の半ばも過ぎぬべしかたぶく月の惜しきのみかは
と書きたり。
この歌は治部卿の歌なり。
かかる御尋ねあるべしとはいかでか知るべき。
ただ、もとよりおもしろくおぼえて、書きつ付けて持たれけるなめり。
そののち、また治部卿を召して、先のやうに尋ねらるるに、これも申しやりたる方なくて、
かささぎの渡すやいづこ夕霧の雲居に白き峰のかけはし
と、高やかにながめて出でぬ。
これは宮内卿の歌なりけり。
まめやかの上手の心は、されば、一つなりけるにや。
現代語訳
近頃は歌の道が特に流行しているので、天皇や上皇や摂政などの方々もそれぞれ和歌に上達なさっています。
臣下がたくさんいらっしゃる中で、民部卿の藤原定家、宮内卿の藤原家隆という方々は、元々歌で知られた家の名を途切れさせることなく、
歌の道で有名になった方たちなので、この二人には誰も及びませんでしたが、
あるとき摂政殿(後京極、藤原良経)が宮内卿(藤原家隆)を呼び出し、いまどき、良い歌人がたくさんいる中で誰が特にすぐれているだろうか。
自分の思うとおりをありのままに述べてみなさい、と質問されたことがありました。
家隆は優劣はつけがたいですと言ったものの、しかし誰かの名前が心の中に浮かんでいるようにも見えたので、
摂政が本当はどうなのですかとさらにお聞きなさったところ、家隆は懐から畳紙を落とし、そのまま退出なさいました。
摂政がすぐにその紙をご覧になると、
明けばまた秋の半ばも過ぎぬべしかたぶく月の惜しきのみかは
と書いてありました。
この歌は民部卿(藤原定家)の歌なのです。
このようなご質問があるとは知りようがないから、元々は自分が良い歌だと思って書きつけて持っていたものなのでしょう。
その後今度は民部卿(藤原定家)をお呼び出しになって、前のように質問されるとこちらもはっきりと答えないで、
かささぎのわたすやいづこ夕霜の雲居に白き嶺のかけはし
とたかやかにこの歌を朗詠しながら退出なさいました。
これは宮内卿、藤原家隆の歌です。
本当に歌の上手な人の考えることは結局同じ、ということなのでしょうか。
2つの歌の意味
2人の詠んだ歌の意味がわかると、この話はより趣が増しますね。
明けばまた秋の半ばも過ぎぬべしかたぶく月の惜しきのみかは
定家の歌は次の通りです。
八月十五日の夜が明けたなら、今年もまた、秋の半ばが過ぎてしまうことでしょう。
西に傾く中秋の名月が惜しいだけでしょうか、いいえそうではありません。
去りゆく秋もまた惜しいのです、というのです。
一方、家隆の歌は、
かささぎのわたすやいづこ夕霜の雲居に白き嶺のかけはし
渡すやいづこという問いに対して「夕霜の」以下が答えとなっている歌と判断できます。
白く霜の降りた山々の稜線を、かささぎが翼を並べてできた架け橋に見立てていると読み取るのです。
かささぎのの歌は百人一首にも載っている大伴家持の歌を本歌取りしています。
かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞふけにける
かささぎが渡すという伝説の橋はどこにあるのでしょうか。
この夕暮れにかささぎが一面に白く置いて、天空に浮かんで見える山の峰々がこの世のものと思われぬほど美しく見えて架け橋のように見えますという意味です。
いずれにしても名歌ですね。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。