和漢の境
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は令和3年、都立戸山高校に出題された国語の問題を考えてみます。
自校作成の問題なので、通常のものよりはかなり難しいです。
出典は評論家の松岡正剛『日本文化の核心』です。
文化論は毎年どこかの学校に必ず出題されますね。
特に西洋と東洋の二項対立は、論点がはっきりしているだけに、作成しやすいのです。
日本人は大変に文化論が好きだと、昔から言われています。
自分の国が、他とどう違うのかということに強い興味や関心を持っているのかもしれません。
小論文を書く上でも、国語の問題を考える場合でも、文化論や日本人論に関する文章は必ず読んでおかなければいけません。
代表的な著作は次のようなものです。
ルース・ベネディクト『菊と刀』
中根千枝『タテ社会の人間関係』
土居健郎『甘えの構造』
山崎正和『柔らかい個人主義』
内田樹『日本辺境論』
李御寧『縮み志向の日本人』
イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』
この他にも数え上げたらキリがありません。
それくらい日本人は自国の文化や、民族そのものに対して関心を強く持っているのです。
松岡正剛は今回出題された文章の中で、日本の深い魅力と呼ばれるものの根源を探ろうとしています。
例えば「わび・さび」「数寄」「まねび」といった概念です。
それがどこから来たものであるのか。
和漢の境という概念から、さらに「引き算」というキーワードを選び出しました。
「漢」の文化から「漢」の要素が強い部分を引き抜きながら、国風の文化を創り出していったと理解したのです。
問題文の一部をここに書き抜きました。
冒頭の部分を読んでみましょう
問題文(部分)
和漢の境をまたぐとは、中国と日本の交流が融合しつつ、次第に日本独自の表現様式や認知様式や、さらには中世や近世で独特の価値観を作っていったということです。
これは大雑把には次のようなことを意味しています。
アジア社会では長らく中国が発するものを、グローバルスタンダードとしての規範にしてきたのですが、そのグローバルスタンダードに学んだ日本が奈良朝の『古事記』や『万葉集』の表記や表現において、一挙にローカルな趣向を打ち出し、ついに「仮名」の出現によって、まさに全く新たな「グローカルな文化様式」や「クレオールな文化様式」を誕生させたということです。
しかも、その後はこれを徹底して磨いていった。
何を磨いて磨いたかというと、クレオールな「和漢の境」を磨いていったのです。
なぜ、このようなことをしたのか。
なぜそんなことが可能になったのか。
たんに知恵に富んでいたわけではないのです。
二、三の例で説明します。
たとえば禅宗は中国からやってきたもので、 鎌倉時代には栄西や道元は実際に中国に行って修行もしています。
しかし、日本に入って各地に禅寺が造営されるようになると、その一角に「枯山水」という岩組みや白砂の庭が出現します。
竜安寺や大徳寺が有名ですが、このような庭は中国にはないものです。
中国の庭園は食物も石もわんさとあります。
日本の禅庭は最小限の石と植栽だけで作られ、枯山水にいたっては水を使わずに、石だけで水の流れを表現します。
つまり引き算が起こっているのです。
お茶も中国からやってきたものでした。
栄西が『喫茶養生記』でその由来を綴っている。
しかし日本では最初こそ中国の喫茶習慣を真似ていたのですが、やがて「草庵の茶」という侘び茶の風味や所作に転化していきました。
またそのための茶室を独特の風情で作り上げた。
身ひとつが出入りできるだけの小さな躙(にじり)口を設け、最小のサイズの床の間をしつらえた。
部屋の大きさも、広間から四畳半へ、 三条台目へ、さらには二条台目というふうになっていく。
こんなことも中国の喫茶にはありません。
ここにも引き算が起こっているのです。
侘び茶や草庵の茶に傾いた村田珠光は、短いながらもとても重要な『心の文』という覚え書の中で、そうした心を「和漢の境をまぎらかす」と述べました。
たいへん画期的なテーゼでした。
このように日本は「漢」に学んで漢を離れ、「和」を仕込んで和漢の境に遊ぶようになったのです。
クレオールな文化様式
クレオールというのは難しい言葉ですね。
ここで少し噛み砕いておきましょう。
異質なものが混じりあうと当然、それ以前とは同じ概念では理解できなくなります。
異なるものが生み出されていくからです。
その時、元のいずれとも全く同じではない新しい存在のあり方を人は許容せざるを得ません。
つまり創り上げるのです。
その概念のことを「クレオール的な文化」といいます。
言葉でも同じです。
最初に2つの異なった言語同士では、理解ができません。
すると、その間に間に新しい言葉が生まれます。
それを「クレオール言語」というのです。
このことについては、以前別の記事に書きました。
最後にリンクを貼っておきます。
読んでみてください。
新しい文化の誕生
和と漢の文化が融合し、新しい文化が生まれていった過程を少しみてみます。
よく言われるのは、国語的な観点からいえば、「仮名」の誕生でしょう。
漢字の音を「万葉仮名」にしたところが第1次のクレオール化だとすれば、それを「ひらがな」という全く新しい文字にまで進化させたのは、想像以上に大きなことでした。
その背景には平安中期から後期にかけて栄えた、優雅な貴族文化があったからだと考えられます。
日本人は唐の文化を自分の国に移すところまでは非常に熱心でした。
しかしその後、ものすごい勢いで和風にしていった勢いは嵐のようだったといえます。
遣隋使、遣唐使が廃止されたことも大きいでしょうね。
それ以前の日本には自分の国に属する文字がありませんでした。
だからあらゆる書類は、漢字で表現する以外に方法がなかったのです。
しかし「仮名」が生まれてからは『万葉集』の世界とは違う日本語の文字の世界が広がりました。
そこから和歌が生まれるまではすぐだったのです。
『古今和歌集』の「仮名序」は日本人の魂の叫びだったのかもしれません。
物語や日記、随筆も次々と仮名を用いて作られました。
本当の文字としての「真名」から次のクレオール的な文化表現、「仮名」が生まれたのです。
そこから女流文学も開花しました。
日本の民族に由来するある種のやさしさが、仮名の影響下におかれたことの意味は大変大きいのです。
勅撰和歌集にも仮名が入りました。
天皇の使う言葉も「漢」の境を越えたのです。
つまり筆者の言う「漢」に学んで漢を離れ、「和」を仕込んで和漢の境に遊ぶようになれた原因の1つは、文字の創設にあったと考えて間違いありません。
日本文化の核心については、いくらでも検証の余地があります。
あなたも幾つかのパラメーターにそって調べ、検討してみてください。
必ず自身の勉強にもなり、小論文のポイントを絞るための要素にもなると考えます。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。