花山院の出家
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は大鏡の中でも、最も有名な「花山院の出家」を読みましょう。
高校の古文では必ず扱います。
ここから大きく歴史が転換していったのです。
『大鏡』の中でもハイライトといっていいのではないでしょうか。
ドラマの1シーンを見ているようです。
藤原道長、頼通親子の摂関政治がこの後、完成したのです。
それとあわせて、中世の文学も花開きました。
『源氏物語』が登場した背景にも、この事件が大きく関わっているのです。
一条天皇の中宮定子に仕えていた清少納言は『枕草子』を書き、その後、中宮彰子に仕えた紫式部が『源氏物語』を著しました。
花山院の出家は陰謀劇そのものです。
実際にあったことだというのですから、政治の世界は怖ろしいというしかありません。
同じ藤原一族の中での確執です。
その結果が摂関政治の権力関係を大きく変化させました。
「花山院の出家」は、17歳で即位した花山天皇が、わずか2年で出家してしまったときの話です。
藤原兼家が息子の「粟田殿」(藤原道兼)を使って花山天皇を騙したのです。
帝の女御、藤原忯子が、出産時に子とともに亡くなるという悲劇に見舞われました。
女御の死去に心をいためていた天皇は、寛和2年(986)6月23日の朝、蔵人藤原道兼に導かれて内裏を脱出し、山科の元慶寺(花山寺)に入って出家しました。
これは外孫の皇太子(後の一条天皇)を即位させようとした、右大臣藤原兼家の陰謀にのせられた結果です。
この事件を「寛和の変」と言い、兼家は皇太子の天皇即位という目的を果たしました。
花山天皇の治世は、わずか1年10ヵ月の短期間に終わったのです。
本文
次の帝、花山院の天皇と申しき。冷泉院の第一の皇子なり。
御母、贈皇后宮懐子と申す。
永観二年八月二十八日、位につかせ給ふ、御年十七。
寛和二年丙戌六月二十二日の夜、あさましく候ひしことは、
人にも知らせさせ給はで、みそかに花山寺におはしまして、
御出家入道せさせ給へりしこそ、御年十九。
世を保たせ給ふこと二年。そののち、二十二年おはしましき。
あはれなることは、下りおはしましける夜は、
藤壺の上の御局の小戸より出でさせ給ひけるに、
有明の月のいみじく明かかりければ、
「顕証にこそありけれ。いかがすべからむ。」と仰せられけるを、
「さりとて、とまらせ給ふべきやう侍らず。
神璽・宝剣わたり給ひぬるには。」と、粟田殿のさわがし申し給ひけるは、
まだ帝出でさせおはしまさざりける先に、手づから取りて、
春宮の御方にわたし奉り給ひてければ、帰り入らせ給はむことは、あるまじくおぼして、しか申させ給ひけるとぞ。
さやけき影を、まばゆくおぼしめしつるほどに、月の顔にむら雲のかかりて、少し暗がりゆきければ、
「わが出家は成就するなりけり。」と仰せられて、歩み出でさせ給ふほどに、弘佞殿の女御の御文の、
日ごろ破り残して御身も放たず御覧じけるをおぼしめし出でて、
「しばし。」とて、取りに入りおはしましけるほどぞかし、
粟田殿の、「いかに、かくはおぼしめしならせおはしましぬるぞ。
ただ今過ぎば、おのづからさはりも出でまうで来なむ。」と、
そら泣きし給ひけるは。花山寺におはしまし着きて、
御髪下ろさせ給ひてのちにぞ、粟田殿は、
「まかり出でて、大臣にも、変はらぬ姿、いま一度見え、かくと案内申して、必ず参り侍らむ。」と申し給ひければ、「我をば、はかるなりけり。」とてこそ、泣かせ給ひけれ。
あはれに悲しきことなりな。
日ごろ、よく御弟子にて候はむと契りて、すかし申し給ひけむが恐ろしさよ。
現代語訳
次の帝は、花山院の天皇と申し上げました。冷泉院の第一皇子です。
御母は、贈皇后宮懐子と申し上げます。
永観二年八月二十八日、皇位におつきになりましたのは、御年十七歳の時でした。
寛和二年丙戌の年の六月二十二日の夜、驚きあきれる思いをいたしましたのは、
誰にもお知らせにならずに、こっそりと花山寺にいらっしゃって、
ご出家し、入道してしまわれたのです。御年十九歳の時のことでございます。
ご在位なさっていたのは二年。ご出家の後、二十二年間ご存命でした。
しみじみとした思いになることは、花山帝がご退位になりました夜のことです。
その夜は、清涼殿の藤壺の上の御局の小戸からお出ましになったところ、
有明の月がとても明るく出ておりましたので、
「あまりに明るいので人目につきそうだなあ。どうしたらよいものか。」と仰せになったのですが、
「だからといって、ご出家をおやめあそばすわけにはまいりません。
三種の神器の神璽、宝剣もすでに皇太子さまのもとに、移っておしまいになっておりますから。」と、粟田殿(道兼)がせきたて申し上げなさったのです。
と申しますのは、まだ天皇がお出ましにならなかった前に、道兼公が自ら神璽・宝剣を取って、皇太子の御方にお移し申し上げてしまわれたので、
天皇が宮中へお帰りになるようなことは、由々しきことだとお思いになって、そのように申し上げなさったということです。
明るい月光を、気がひけることだと帝がお思いになっているうちに、
月の面にむら雲がかかって、少しあたりが暗くなっていったので、
「私の出家は成就するな。」と仰せになって、
歩き出されますうちに、亡くなられた弘徽殿の女御のお手紙で、
平素お破り捨てにならずに、御身から離さず御覧になっておられたのをお思い出しになって、「ちょっと待て。」と仰せになって、それを取りにお入りになりました。
そのときのことです。
粟田殿が、「どうして、このようにいつまでも未練がましくお考えになってしまわれるのですか。
もしただ今この機会を逃したら、おのずと障りも出てまいりましょう。」と、うそ泣きなさったということです。
花山寺にご到着し、天皇がご剃髪になったあとになって、粟田殿は、
「私は退出して、父大臣(兼家)にも、出家前の姿を、もう一度見せ、
こういう事情とご報告申し上げて、必ず参上しましょう。」と申し上げなさいましたので、花山帝はさすがに「私を、だましたのだな」と仰せになってお泣きになりました。
しみじみと心痛む悲しいことでした。
平素は、いつまでもお仕えしましょうと、道兼公は帝と約束していたのです。
それをうまくだまし申し上げなさったということは、本当に恐ろしいというしかありません。
政治劇その後
花山天皇という人は冷泉天皇の第一皇子です。
17歳で即位したものの、その翌年、寵愛していた女御(藤原忯子)が懐妊中に亡くなってしまったのです。
これを政治的なチャンスとみたのが、東三条殿、藤原兼家でした。
粟田殿(あわたどの)、藤原道兼は兼家の3男です。
蔵人として、花山天皇に仕えていたのです。
兼家の指示を受けて。花山天皇を騙し、出家させてしまうのです。
兼家は自分の娘、詮子の子である春宮(円融天皇の第一皇子・懐仁親王、後の一条天皇)を即位させようと企んでいたのです。
この当時、どれほどの権力を持っていても、帝は出家してしまえば、その瞬間から俗世とは切り離され、政治的な力は失われてしまいました。
天皇は出家後は「院」とよばれ、政治の世界から退場したのです。
この時代からはるか後になると、「院政」も可能になりました。
源平の時代になると、後白河院のように政治力を持つ「院」も登場します。
女御を亡くして、世をはかなんでいる帝に対し、粟田殿は出家を唆すのです。
自分も一緒に剃髪するといって安心させ、最後には逃げてしまいます。
皇位の証である三種の神器も皇太子に渡したといって、既成事実を重ねていきます。
最後に騙されたことを知った時には、すでに遅しという段階でした。
政治の世界は非情です。
紫式部の父親は花山院が出家したことで、やっと手にした地位を再び失っています。
中世における大きな政治劇であったことは、間違いありません。
ぜひ、『大鏡』を読んでみて下さい。
歴史の真実が見えてきます。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。