二十億光年の孤独
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は高校で必ず学習する代表的な詩を1つ取り上げます。
谷川俊太郎の第1詩集に収められた「二十億光年の孤独」がそれです。
彼の存在を知らない人はいないでしょうね。
スヌーピーやチャーリーブラウンの翻訳者としてもよく知られています。
高校に入ってしばらくすると、評論などと並んで『羅生門』などの小説を最初に学びます。
それが一段落したところで、詩の授業を行うのです。
萩原朔太郎や高村光太郎などとならんで必ず学習するのが、谷川俊太郎の詩です。
タイトルは「二十億光年の孤独」です。
最初に詩を読みましょう。
この本には谷川俊太郎が17歳のときから執筆していた詩が収録されています。
三好達治の序文もつけられているのです。
彼の父である哲学者、谷川徹三に見せた2冊のノートにはたくさんの詩が綴られていました。
徹三は衝撃を受けて詩人の三好達治の元にノートを送ったといいます。
三好はそこから6編の詩を選び文芸誌『文學界』に推薦しました。
詩人、谷川俊太郎が生まれた瞬間です。
1950年12月号に数編が掲載されました。
全文
人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする
火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或いは ネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした
—————————
不思議な読後感のある詩ですね。
実はこの詩を授業で扱うのは、かなり厄介なのです。
元々、詩というのは解説をして理解してもらうような性質のものではありません。
読んだ人がどのように感じてもいいものなのです。
それをいかにもわかったようにして解説するとと、かえってつまらないものになってしまいがちです。
詩はただ読めばいいというのが、ぼくの持論です。
しかし試験もやらなくてはなりません。
生徒に仕方なく問いを発する場面も出てきます。
教師というのは随分無粋な仕事だなと感じたものでした。
特に詩の授業ではそれを強く意識しましたね。
よく生徒に訊ねた質問は次のようなものです。
①詩人はなぜ20億光年という具体的な数字で区切ったのか。
②ネリリし キルルし ハララするという言葉はだれのものでどういう意味か。どうしてこういう表現を使ったのか。
③なぜくしゃみをしたのか
④作者がこの詩を通じて伝えたかったことは何か。
大きく分けるとつぎのようなものです。
詩人・大岡信の感想
詩人、大岡信は『二十億光年の孤独』を書いた谷川俊太郎を次のように評しました。
社会の仕組みを知る前に、深く、天体の、あるいは宇宙の仕組みを感じとってしまった少年の、愁いを帯びつつ、しかし決して涙で曇ったりしてはいない、孤独でしかも明るいまなざしだ、と。
本質を一言でついた表現ですね。
怖いくらいです。
大岡信と谷川俊太郎は同人誌『櫂』の仲間でした。
お互いの特質をよく見抜いていたのでしょう。
吉野弘、茨木のり子などとともに名を連ねていました。
戦後の詩壇を支えた詩人たちが一堂に会していたのです。
少し質問の内容に踏み入ってみましょう。
①の20億光年という距離の長さはどこから来たのか。
これはその当時の彼の知識の範囲内にあった宇宙の直径だと言われています。
ちなみに宇宙の現在の直径は、900億光年以上はあるようです。
しかしひたすら遠いという意味あいがあれば、よかったのでしょう。
たまたま数字のイメージがズバリ、彼の孤独を表現していたと考えるのが妥当です。
②はどうでしょうか。
火星人の生活全般と考えればいいのではないでしょうか。
第1連の「眠り起きそして働き」と第2連の「ネリリし キルルし ハララしている」は対になっています。
「ネリリ」は火星人が「眠る」様子、「キルル」は火星人が「起きる」様子、「ハララ」は火星人が「働く」様子をユーモラスに表現した作者独特の言葉だと考えられます。
③のくしゃみについては谷川俊太郎が解説の中で次のように言っています。
宇宙は大きい。しかしくしゃみは小さい。
その対比が面白いと思ったんです、と。
主題は何か
④の主題については、タイトルにある通りです。
この詩は、3行、5行、2行4連による6連構成の自由詩です。
「地球」と「火星」という宇宙の中に漂う2つの星をイメージしています。
その中で、「最も素朴で根源的な意味での孤独感」と「宇宙に存在していることからそのまま生じてしまう孤独感」を示そうとしたいっていいでしょう。
普通ならば、20歳前後は社会の中における自分の基軸を探そうと夢中になる年齢です。
しかし彼はそれを宇宙の中での自分に置き換えました。
人間の集団の中にいれば人は孤独を感じるものです。
それ以上に宇宙の中にポツンと投げ出された人間の孤独や不安とはどのようなものかが、気になって仕方がなかったのです。
哲学的に言えば「実存」でしょうか。
人類は小さな球の上で、眠り起きそして働き、ときどき火星に仲間を欲しがったりするという一節を読んでいると、悲しいくらいの孤独を感じます。
自分の命は宇宙の中で、たった1つであり、どこと繋がるのかもわからない。
ただ空間の中に投げ捨てられたものと同じくらいに、はかないと感じたに違いありません。
だからこそ、互いにひかれあうのでしょう。
そんなことを考えていると、思わずくしゃみが出てしまったというところで、突然現実のユーモラスな世界に引き戻されます。
壮大な宇宙の空間の中に漂う自分を考えていたら、突然、現実の世界に引き戻されてしまったということです。
これは読者自身にも同じことがいえます。
この詩を読みながら、自分の存在の危うさを考えている途中で、現実に引き戻されます。
作者もまったく同様です。
結局、人間は自分のいる場所から離れられない不条理な存在なのです。
読み込んでみればみるほど、不思議な詩ですね。
高校生にどこまでこの孤独とユーモアが届いたのか。
自分の授業を思い返してみると、はなはだ心もとないばかりです。
今回も最後までお付き合いあいいただき、ありがとうございました。