【良縁に身をゆだねる】人とのつながりが続く日々【縁は異なもの】

ノート

良縁

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

夏の暑さは身にこたえますね。

最近、ぼんやりしながら、かなり以前のことを考えることが増えました。

しみじみ人の縁ということを考えます。

どうしてこの人と知り合ったのかとか。

どうしてこの人とずっと一緒にいるのかと考えると、不思議で仕方がありません。

最近はコロナ禍の中で、葬儀の形も随分とかわりました。

圧倒的に家族葬が増えたようです。

うつってもいけないし、うつしてもいけない。

難しい世の中です。

今から10年以上も前、ずっとご縁のあった人が亡くなられ、お通夜とともに、告別式に行った時のことをふと思い出しました。

2日間、都心まで通いました。

僧侶の読経をきいているうちに、若かった頃のことをたくさん思い出したのです。

よく大学の授業をさぼっては、その人の職場へお邪魔しました。

すると厭な顔ひとつせず、すぐに近くの喫茶店へ誘ってくれたのです。

ぼくとちょうど10歳違いでした。

実の兄も10歳上なので、ちょうど、もう1人の兄という位置づけだったのかもしれません。

何を話したのか。

今となってはもうほとんど覚えていません。

しかしその時間はとても貴重なものでした。

学校でのことや、将来の仕事の展望、あるいは家や友人のことを語ったのかもしれません。

彼はどんなことでも親身になって聞いてくれました。

長居をしてしまう時は2時間いたかもしれません。

とりとめのないこと

仕事中にお邪魔をするというのも随分無神経な話ですね。

今ではちょっと考えられません。

雑誌の編集部という特殊な環境が、それを許してくれたのでしょう。

とにかくとりとめのないことを次々と話しました。

他にそれだけぼくの話を聞いてくれる人はいなかったのです。

そういう人に若い時に出会えたということは、大きな財産でした。

後になって、一緒に仕事をしたこともあります。

旅に出かけたこともありました。

信州のある峠道に、たくさんの石仏があるということで、そこを訪れたのです。

帰りには、彼のお姉さんの家に泊めてもらい、歓待をうけました。

告別式の時もお目にかかり、5人兄弟の中で私1人が残ってしまったとしみじみ呟いておられました。

そのお姉さんも既に鬼籍に入られました。

それもこれも縁です。

人が人に出会うというのは、本当に不思議なことの重なりの中での出来事だと思います。

どういう事情で知り合うことになったのか。

これも縁です。

たまたま旅行の帰り、汽車の前に座っていた女性が時刻表を持っていたぼくに停車時刻を訊ねたことがきっかけです。

今なら持参のスマホで調べて終わりでしょう。

当時はそんな便利なものはありませんでした。

あの時、彼女がぼくに声をかけてくれなかったら、ご主人に出会うこともなかったに違いないのです。

その後、結婚式の仲人までお願いしてしまいました。

これを縁といわないワケにはいきません。

時の流れ

その時、停車時刻をぼくに訊ねた彼女は、今歌人として活躍されています。

ご主人が亡くなってからの時間も長くなりました。

あの時のちょっとした出会いが、その後の時間を濃密なものにしてくれたのです。

今でも感謝しています。

時間は容赦なく過ぎていきます。

だれにでも、似たような出会いと別れがたくさんあるでしょうね。

最近は、月に1度くらいの割合で、落語を披露しています。

会のメンバーも今や、ぼくにとっては大切な仲間です。

もっとも高齢な会員は84歳です。

1番下が35歳。

落語が唯一の共通点です。

いつでも和気あいあいとしていられるのです。

これも縁でしょうね。

偶然、市の広報に載っていた記事に引き寄せられて、入会してしまいました。

3週間ほど、稽古をみてもらい、その後に発表会をするというワークショップでした。

発表会が終わった後、そのまま居残ったというワケです。

長い月日の間に、プロの芸人をたくさん見てきました。

突然、人気が沸騰した人もいれば、いまだにそうでない人もいます。

これも縁なのかもしれません。

袖すりあうも他生の縁とはうまいことを言ったものです。

「他生」という表現は「今生(こんじょう)」の反対語です。

つまり「前世・来世」を指す仏教用語なのです。

袖をすりあうような出会いのある「前世からの因縁」ということなのでしょうね。

「多生」もやはり仏教用語です。

何度も生まれ変わることをさします。

他生か多生か

人間は何度も生まれ変わるもののようです。

輪廻転生などという言葉を聞いたことがありますね。

六道と呼ばれる境涯を行ったりきたりするもののようです。

すなわち、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上のことです。

よく六道の辻などといいます。

京都には有名なお寺があります。

六波羅蜜寺のそばにある、小野篁ゆかりの六道珍皇寺がそれですね。

8月10日前後には「六道まいり」という風習もあります。

このあたりで迷っている霊を迎えにいくのです。

別称を「精霊迎え」とも呼んでいます。

つまり「多生の縁」とは、その字の通りです。

何度も生まれ変わりを繰り返している間に結ばれた深い縁なのでしょう。

別れの日

最後のお別れの時、棺に花を捧げ、本当に長い間、お世話になりましたと語りかけました。

人は1人では生きていけません。

それだけに縁を大切にしなくてはいけませんね。

頼まれたらやってみる。

頼まれなくてもやってみる。

そうした日々の果てに、良縁が結ばれていくのです。

それ以外に何があるのでしょうか。

このブログもその縁の1つです。

そう信じています。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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