【幸せの指標】国民総幸福度・GNHを大切にしてほどほどに生きる

ノート

ブータンという国

みなさん、こんにちは。

ブロガーのすい喬です。

今回は幸せについて考えましょう。

誰だって幸福になりたいのです。

あなたは幸せですかと訊かれたら、さあなんと答えますか。

1番本質的な質問かもしれませんね。

世界一ハッピーな人々が多い国はどこなのでしょう。

まず最初にブータンの名があがりませんか。

ブータンはインド、中国と国境を接した山岳国家です。

国土の大半が2000m以上という高地にあります。

この国が一躍有名になったのはそれほど以前のことではありません。

DarkWorkX / Pixabay

ブータンのワンチュク国王がはじめて来日したのは2011年。

あの時の衝撃は大きなものがありましたね。

わずか6日間で日本人の心を魅了したのです。

彼はGNH(国民総幸福度)について何度も熱く語りました。

そのふるまいや自然な礼の様子が日本人の心を捉えたのです。

福島の小学校では子どもたちと一緒に祈りを捧げました。

さて日本のGNHはどれくらいなのでしょう。

その基準はどこにあるのか。

ブータンは長年鎖国政策をとっていたそうです。

しかし1971年、国連に加盟して以来、国民総幸福量を基本とした国づくりで存在感を高めています。

幸せを計る

幸せを計ることぐらい難しいものはないでしょうね。

人によって千差万別だからです。

しかし最低限これだけは欲しいという必須のものもあります。

ブータンでは何が幸福を支えてくれているのでしょうか。

キーワードは当たり前の生活を送れる幸せだと言います。

ブータン人に幸せですかと訊ねると「はい」と答える人がほとんどだと聞きます。

これは、精神的なものに重きを置いているからではないでしょうか。

つまり心が満たされているという1番の基本がそこにあります。

国王というリーダーが信頼されている事実もあるでしょう。

医療や教育が無償で平等に提供されている福祉の手厚さもあります。

さらに大切なのが仏教を中心とした信仰です。

1日3食食べられて、寝るところがあって、着るものがあるという安心感。

それがブータンの人にとっての幸福感につながっているのです。

さらに言えば、幸せは国にはなく、個人の家庭にあるという考えです。

国が栄えて個人が貧しくなるのではどうにもなりません。

それでは本末転倒です。

国民の幸せのために国家があるとする基本は絶対でしょうね。

しかし世界幸福度ランキングが1位だというワケではないのです。

国連の最新発表によると、1位フィンランド、2位デンマーク、3位スイス、ブータンはずっと下位です。

この差はどこからくるのでしょうか

実はブータンの提唱する国民総幸福度と国連のものとでは調査項目が、かなり異なるのです。

国連のは「人口あたりのGDP」「社会的支援」「健康な平均寿命」「人生の選択をする自由」「性の平等性」「社会の腐敗度」などをポイント化し、ランキングにしています。

西洋的な価値観に重きが置かれているため、北欧を中心にした欧米諸国が上位を独占する結果となっているのです。

変容する社会

最近ある雑誌を読んでいたら、ブータンの人の考え方にも微妙な変化があらわれつつあるという記事がありました。

人間の欲望には限りがないのだなというのが、今の感想です。

あれだけものを欲しがらずに生きてきた人々も、さすがに情報化社会の波には勝てません。

知ればやはり欲しくなるのです。

以前なら誰もが貧しかったのです。

その差は僅かなものでした。

だから欲しいという気持ちもわかなかったに違いありません。

しかし今はネットの時代です。

あらゆる情報が瞬時に入ってくる。

富の偏在もすぐにわかるのです。

学歴の高い者が高給を得ることも知りました。

さりとて自分の身を振り返れば資力が十分にあるとも思えません。

以前ならそこで自分の「分」というものを知り、諦めました。

ある意味で信仰とともに諦念こそが、世界を形作っていたのです。

だが現在はそうではありません。

仕方がないから自動車を購入する際に高い税をかけるとしましょう。

その結果、多くの人々には縁遠いものとなります。

それでも人の欲望には際限がないのです。

空の上を毎日飛ぶ飛行機を眺めている少女の話が、テレビで紹介されていました。

首都に行って働き、自分もいつか飛行機に乗りたい。

ここでの生活には未来がないと彼女ははきはきと答えていました。

知ってしまうということはつらいことです。

だからといって愚かなままでいればいいということにもなりません。

本当の幸福とはなにか。

自分のいる場所で輝きなさいという言葉があります。

まさに「知足」ということにつきるのでしょう。

しかしそれを行うにはあまりにも世界が狭くなりすぎたのかもしれません。

ほどほどに…

精神科医・香山リカと社会学者・橘木俊詔との対談集『ほどほどに豊かな社会』を本屋でつい立ち読みしてしまいました。

タイトルが気になったからです。

なるほど、ほどほどの社会をこれからは目指して生きていく以外に道はないと日頃感じていたからかもしれません。

内容にこれといった目新しさはありませんでした。

肩の力を抜いて喋りたいことをただしゃべり、それを本にしたという程度のものです。

しかし「中庸」という言葉の意味をもう少し考えなくてはいけないと実感しました。

津波、原発事故、さらにコロナ禍の惨状はあまりにも自然を甘くみていた故の惨事ではないでしょうか。

必ずいつかは起こりうることが、絶対にないと信じこまされていたからこそ、その衝撃も計り知れないものがあったのです。

絶対などというものがこの世にはないという、ごくあたりまえの真実が目の前で証明されました。

同時に人間のはかなさも感じました。

ここから立ち上がるには、何を手にすればいいのでしょうか。

そのひとつが、「ほどほど」という言葉ではないかと感じます。

世界が富を追い求め、あくせくしていく中で、幸せをどこに見いだすのかということもあらためて考えなくてはならなくなりました。

pixel2013 / Pixabay

ブータン人の幸福は現代文明を十分に知らなかったからこそという側面を持っています。

皆が車社会の恩恵を味わうようになったら、今の幸福感を保てるのかどうか。

しかしもうこれ以上便利にならなくてもいいというところまで、人類が来ているのも事実なのです。

どれほど電子機器が人との距離を縮めたといっても、心の距離がそれに正比例して近くなったというわけではありません。

ほどほどの社会を築いていくために自分がやれることはなにか。

新年にあたって、そのことをあらためて考えて続けていこうと思います。

ぼくたちは今、本当に難しい時代を生きています。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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