ローコンテクスト化
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
日本の文化を表現する言葉はいくつもありますね。
「忖度」などいう表現を少し前によく聞きました。
単一民族で島国、さらに農業中心であった時代はすでに過去のものです。
現在はグローバル化の波に覆われ、外国人の姿をみない日はありません。
海外からきている多くの人々に頼らなければ、回らなくなっているのが現状です。
これは旅行者、インバウンドだけの話ではありません。

留学生もしかり、労働者も同様です。
日本を表現する言葉として以前はよく「ハイコンテクスト文化」の国だと言われることがありました。
同じ民族で構成されているために、「阿吽の呼吸」という伝達の方法があったのです。
一言でいえば、多くを語らない態度です。
互いの目をみていれば、なんとなく相手の言いたいことがわかるのです。
しかしそうした文化も次第に消えつつあるのかもしれません。
明らかに文化の構造が変化しつつあります。
日本人にとってはなかなか気づかないことも、外国人の目からみれば、もっと明らかになるということもあります。
数年前にある大学で出題された小論文に次のような文章がありました。
筆者は石野シャハランというテヘラン生まれの男性です。
現地のテレビ局勤務などを経て、来日していた父親のあとを追い、20年以上東京で暮らしています。
原文のタイトルは『「言外の意味」を読み取らなくなった日本』というものです。
課題文
日本語のコミュニケーションでは言語外の情報、すなわちその場の状況や相手の立場から意味を理解する必要が多い。
だからハッキリと言わず「におわせる」ことができる。
実はこの考えは学術的に実証されておらず反論も多いのだが、例えとして挙げられる事例にはなんとなく納得させられてしまう。
近所の住民同士が交わす「いいお天気ですね、今日はどちらまで」「ちょっとそこまで」といった会話はまさに日本的だと思う。
これが欧米なら「どちらまで」と聞くと「It’s none of your business(あなたには関係ない)」と言われかねないが、日本では意味深な表情で「ちょっとそこまで」と伝えることで「あなたには言いたくない気持ちをくみ取ってね」と暗に言える。
「一を聞いて十を知る」ことを求めるわけだ。

私が生まれたイランもどちらかというとハイコンテクストの文化だと思うが、1を言っても4~5しか理解されないことはよくあった。
だが主観を承知で述べると、昨今、日本ではむしろハイコンテクストの逆、言語での伝達を重視する「ローコンテクスト化」が進んでいると感じる。
パンデミックのせいで対面でのコミュニケーションが減ったせいだろうか。
特に若者たちはLINEやメッセンジャーを使い、短い文章で要点を伝えることにたけている。
社内で隣同士の席で働いているにもかかわらず、チャットでのみ会話する若手社員もいるくらいだ。
彼らのメッセージは具体的で、私が会社員時代に困った上司の「あれ、やっといて」といった「察する」ことを要求する言い方と大きく異なる。
日本が契約社会、成果主義に変わりつつあることも、ローコンテクスト化の原因ではないかと考える。(中略)
よいことも悪いこともやんわりとオブラートに包んだようにして伝える、常に相手の気持ちを思い自己主張しない、そういう日本文化も私は好きだ。
だがそれが必要以上の同調主義や忖度を生み、特に女性のみにそういった気遣いを言外に求め、補助的な役割を担わせられがちだったのかもしれないと思うと、ローコンテクスト化は日本社会の成熟化には必要な過程なのかもしれない。
問題
「日本のローコンテクスト化についてあなたの経験を交えて、800字で考えたことを書きなさい」というのがこの課題文に付随した設問です。
ポイントは日本の文化が、「ハイコンテクスト」から「ローコンテクスト」へ移行しているという筆者の指摘です。
現代のコミュニケーションのシステムが内側から変化しつつあるという論点は、近年さまざまな形で出題されています。
最初のキーポイントは、言葉にしない伝達の方法が日本では主流であったという事実です。
そこから、今日のように、自分の意志をきちんと表現する文化に変化しつつあるというのが、次の視点です。
筆者は、近隣住民の会話に見られるような、言外の意味を読み取らせる従来の日本の文化を認めつつも、近年はむしろローコンテクスト化が進んでいると主張しています。
その背景としてはさまざまなことが考えられます。
パンデミックによる対面機会の減少や、成果主義の浸透といった社会的な変化を挙げることも可能でしょう。
さらに若者世代において、SNSなどのツールを通じて具体的で簡潔な伝達を重視している現状があげられます。
日本人全体が曖昧な表現を嫌う方向になりつつあるのかもしれません。
あなた自身の体験で似たようなことがあるでしょうか。
元々、日本人は同調志向が強く、他者との違いを明確にすることを得意としませんでした。
それが極まったものとして、忖度があります。
相手の意志を先回りして読み込み、自分の意見とするという表現方法です。
YesNoをはっきり表明しようとしないのです。

村社会の中ではじかれることを、最も強く怖れた結果と言えるでしょう。
しかしそれが今日、次第に崩れつつあるというのが、筆者の論点なのです。
日本は伝統的に「ハイコンテクスト文化」として語られることが多かったことは誰もが知っています。
コミュニケーションにおいて、言語そのものよりもその場の状況や相手の立場といった「言語外の情報」から意味を理解する必要性が高かったからです。
象徴的な言葉があります。
「どちらまで」という問いに対しての答えが「ちょっとそこまで」というものです。
曖昧な答えの中に日本人の伝達の神髄があります。
「あなたには言いたくない気持ちをくみ取ってね」と暗に示すようなやり取りがこれに該当するのです。
ローコンテクスト化は本当か
小論文を書き出す場合、筆者の意見についてのYesNoを最初に考えましょう。
あなたはどちらの立場で書きますか。
数年が経過したとはいえ、コロナパンデミックによる対面コミュニケーション減少の影響は今もあります。
LINEに代表されるSNSなどで、要点を伝えることに長けた現状も存在します。
メッセージの内容や求める回答は具体性を帯びたものが増えつつあります。
「察する」文化からの変化の予兆が読み取れるのです。
さらに、日本社会が契約社会や成果主義へ変わりつつあることも、ローコンテクスト化の原因になりうるかもしれません。
外資系の企業に比べれば、日本の会社にはまだ忖度の文化があると感じます。
相手の気持ちを考え、自己主張せずに、良いことも悪いことも柔らかに伝える日本文化の伝統も残っていない訳ではありません。
しかし、それにもおのずと限界があると考えるべきでしょう。
必要以上の同調主義や忖度を生み出してしまっては、生産性が上がらないからです。
女性のみにそういった言外の気遣いを求める傾向は、今も残っているともいえます。
それらを次第に薄め、世界標準に近づいていくという流れに、日本ものっていることは間違いありません。

意図しない差別的な役割分担などは許されないことです。
しかし上意下達の系統が今も残っている組織があります。
各省庁、役所、警察の組織などを描いた小説やルポなどを読むと、その内側の構造は従来からある日本的なものであると言わなければなりません。
あなたの経験の中で、最もこの内容にふさわしいものを探してみることをお勧めします。
自分の言葉でまとめてみてください。
それがこの論文の良しあしに繋がるのではないでしょうか。
今回も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
