「奥の細道」福井から敦賀へ「隠者・等栽の風流な暮らし方に共感」

いよいよ福井へ

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は奥の細道「福井、敦賀」編を読みます。

『奥の細道』は松尾芭蕉の俳諧紀行文です。

元禄年間の1964年に完成し、芭蕉没後の1702年に刊行されました。

芭蕉が慕った西行のたどった道を、500年忌にあたる1689年(元禄2年)歩いたのです。

門人の曾良を伴なって江戸から奥州、北陸をめぐって美濃の大垣に至るまでの道程です。

そこからさらに伊勢に向けて旅立つまでの体験を、推敲に推敲をを重ねて練り上げました。

高校ではこの紀行文の幾つかの章を学びます。

最後の大垣に至る段は授業をすることもありますが、ここに掲載した章は滅多に扱いません。

ここで、芭蕉の文章が持つ独特な味わいをぜひ、楽しんでください。

飄逸なユーモア感覚に驚かれることと思います。

もともと俳諧が持っていた軽みと呼べるようなものを、みごとに表現しています。

掲載したのは、終末の山場ともいえる福井、敦賀の章です。

光源氏が夕顔の宿を訪れる場面を下敷きにしています。

本歌取りのような趣向をイメージしてください。

『源氏物語』では「をかしげなる」女の童が出てきて、夕顔の君の歌を書いた残り香のする扇を手渡します。

しかしここでは不愛想な応対をする女が出てきて、ちょっと意外性を感じさせるのです。

なんとなく俳句の持つ軽みの雰囲気が漂っています。

浮世離れした等栽の妻の描写は芭蕉の共感の裏返しでもあります。

隠者の風流な暮らしがそこには垣間見えるという、芭蕉の共感もあるのです。

10年ほど前、芭蕉が江戸で独立し始めた頃、この人と交流があったそうです。

等栽はもともと連歌師で、芭蕉より年上の先輩です。

当時は福井で隠者として暮らしていました。

本文

福井は三里ばかりなれば、夕飯したためて出づるに、黄昏の道たどたどし。

ここに等栽といふ古き隠士あり。

いづれの年にや、江戸に来たりて予を尋ぬ。

はるか十年余りなり。

いかに老いさらばひてあるにや、はた死にけるにやと、人に尋ねはべれば、「いまだ存命して、そこそこ」と教ゆ。

市中ひそかに引き入りて、あやしの小家に夕顔・へちまのはへかかりて、鶏頭・箒木に戸ぼそを隠す。

「さてはこの内にこそ」と、門をたたけば、わびしげなる女の出でて、「いづくよりわたりたまふ道心の御坊にや。

あるじはこのあたり何某といふ者のかたに行きぬ。もし用あらば尋ねたまへ」といふ。

かれが妻なるべしと知らる。

昔物語にこそかかる風情ははべれと、やがて尋ねあひて、その家に二夜泊まりて、名月は敦賀の港にと旅立つ。

等栽もともに送らんと、裾をかしうからげて、道の枝折りと浮うかれ立つ。

やうやう白根が岳隠れて、比那が嵩現る。

あさむづの橋を渡りて、玉江の蘆は穂に出でにけり。

鴬の関を過ぎて、湯尾峠を越ゆれば、燧が城、帰山に初鴈を聞きて、十四日の夕暮れ、敦賀の津に宿を求む。

その夜、月殊に晴れたり。

「明日の夜もかくあるべきにや」といへば、「越路の習ひ、なほ明夜の陰晴はかりがたし」と、あるじに酒勧められて、気比の明神に夜参す。

仲哀天皇の御廟なり。

社頭神さびて、松の木の間に月の漏り入りたる。

御前の白砂、霜を敷けるがごとし。

往昔、遊行二世の上人、大願発起のことありて、自から草を刈り、土石を荷ひ、泥渟をかわかせて、参詣往来の煩ひなし。

古例今に絶えず。神前に真砂を荷ひたまふ。

「これを遊行の砂持ちと申しはべる」と、亭主の語りける。

月清し遊行の持てる砂の上

十五日、亭主のことばにたがはず雨降る。

明月や北国日和定めなき

現代語訳

福井までは三里ほどなので、夕飯をすませてから出たところ、夕暮れの道なので思うように進めませんでした。

この地には等裁という旧知の俳人がいます。

いつの年だったか、江戸に来て私を訪ねてくれたこともあります。

もう十年ほど以前のことでした。

どれだけ年を取っているだろうか。

もしかしたらもう亡くなっているかもしれないと思い人に尋ねると、いまだ存命で、元気だと教えてくれたのです。

町中のちょっとした所に小家があり、夕顔やへちまが生えかかって、鶏頭で扉が隠れています。

「どうやらこの家らしいな」と門を叩けば、みすぼらしいなりの女性が出てきました。

「どこからいらっしゃいましたか。お坊様ですか。主人は今、このあたりの某というものの所に行っています。

もしご用があればそちらをお訪ねください」と言うのです。

等裁の妻に違いないと思いました。

昔物語の中にこんな風情ある場面があったなあと思い返しながら、そちらを訪ねていくとはたして等裁に出会えました。

彼の家に二晩泊まって、名月で知られる敦賀の港へ旅立つこととしました。

わざわざ等裁が見送りに来てくれたのです。

裾をおどけた感じにまくり上げて、楽しそうに道案内に立ってくれました。

しばらく歩くと、とうとう白根嶽が見えなくなり、かわって比那嶽が姿をあらわします。
あさむづの橋を渡ると玉江の蘆は穂を実らせています。

鶯の関を過ぎて、湯尾峠を越えると、木曽義仲ゆかりの燧が城があり、帰る山に雁の初音を聞き、十四日の夕暮れ、敦賀の津で宿をとりました。

その夜の月は特に見事でした。

「明日の夜もこんな素晴らしい名月が見られるでしょうか」というと、「越路では明日の夜が晴れるか曇るか、予測のつかないものです」と主人が言います。

酒を勧められた後、気比神社に夜参しました。

ここには仲哀天皇をおまつりしてあるのです。

境内は神々しい雰囲気に満ちていて、松の梢の間に月の光が漏れています。

神前の白砂は霜を敷き詰めたようでした。

昔、遊行二世の上人が、大きな願いを思い立たれ、自ら草を刈り、土石を運んできて、湿地にそれを流し、人が歩けるように整備されたと聞きます。

そのおかげで、参詣に行き来するのに全く困らないのです。

この先例が今でもすたれず、代々の上人が神前に砂をお運びになり、不自由なく参詣できるようにしているのでした。

「これを遊行の砂持ちと言っております」と亭主は語って聞かせてくれました。

月清し遊行のもてる砂の上

その昔、遊行二世上人が気比明神への参詣を楽にするために運んだという白砂。

その白砂の上に清らかな月が輝いています。

砂の表面に月が反射してきれいです。本当に清らかな眺めです。

十五日、亭主の言葉どおり、雨が降りました。

名月や北国日和定なき

今夜は中秋の名月を期待していたのに、あいにく雨になってしまいました。

本当に北国の天気は変わりやすいものなんですね。

軽妙洒脱

俳諧というのはどこかに軽みがなくてはいけません。

もともとは俳諧連歌といいました。

洒落や機知に富んだ文学形態のひとつだったのです。

貞門、談林というふたつの流れから、芭蕉は洒落などを抜いて、芭風という独自のスタイルを積み上げました。

しかし軽妙洒脱はもともと俳諧の根にあるものです。

基本的な考え方といってもいいものでしょう。

この章でも『源氏物語』という王朝文学の粋を本歌取りして、自分の世界を広げようとしています。

夕顔の段はことに悲しみのつのるはかない内容です。

わびしげな女性を登場させて、「夕顔」の段をそれとなく想像させ、そこにそっけない応答をする女性をわざと配置します。

けっして悪意からではありません。

そういう女性を妻として持つ脱俗の人として等栽を登場させるためです。

むしろ人間味を感じさせる配慮がなされているのです。

隠者という言葉を使いましたが、脱俗の人として好感をもって描いた心理的な背景が理解できるでしょうか。

芭蕉が好ましい感情を持ったことは、その家に二夜泊まったという記述からもよくわかります。

蕉風の内側には軽妙洒脱な生き方を望んだ芭蕉の生き方がよく表れています。

夕顔の段の持つはかなさに対比させるようにして登場させた等栽の妻の様子におかしみが宿ります。

明月を敦賀の港で見ようと出立した芭蕉たちに、等栽も一緒に送ってあげると言いながら、着物の裾を妙な恰好にからげて、道案内をした時の様子なども愉快ですね。

その後に仲秋の名月がさえわたる夜で出てきます。

次の日は雨です。

天気のかわりやすい北陸の天気を象徴するような2つの句です。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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