本を読むことの意味をネット全盛の社会の中でもう一度考えてみた

ノート

SNS時代の読書

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は本を読むというのはどういうことなのかについて、もう一度考えてみたいと思います。

昨今の本離れは想像以上のものがあります。

毎日の通勤や通学の電車内をみれば、そのことがよくわかります。

確かにスマホで小説や評論、新聞などを読んでいる人はいます。

しかしその数は想像以上に少ないのではないでしょうか。

書店もめっきり減りました。

2024年3月時点の全国の書店数は1万918店で、10年前の1万5602店から約3分の2になったといいます。

一日に一店が消えている計算だとか。。

町の本屋さんが軒並み消えてしまうのと同時に、雑誌の廃刊も続いています。

本離れが進んでいるというのは多くの調査や報告で確認されている通りです。

その原因はいくつか考えられます。

なんといっても一番はデジタルメディアの普及でしょうね。

スマホやタブレットの普及により、若い世代はSNSや動画コンテンツに時間を多く使うようになっています。

これにより、読書の時間が圧倒的に減少しているのです。

現代人は仕事や学校、趣味などで忙しすぎるのかもしれません。

その結果、読書に充てる時間が取れないということも考えられます。

昨今では生成AIが飛躍的に発展し、短時間で必要な情報が簡単に手に入れられるようになりました。

無理に本を読んで時間を費やすよりも、デジタルであらすじをさっと眺めた方がコスパがいいのは事実です。

ネットの短縮化された要約に慣れてしまったということもあるのではないでしょうか。

活字より、手近なところにゲームや他の娯楽もたくさんあります。

本を読む必要性が急激に落ちているのは間違いがないといえます。

しかし本を勧めたい人にとって、それだけで簡単に納得してしまうことはできません。

他の人と本について語り合うことで、読書の楽しさを感じる機会は貴重なかけがえのないものだからです。

しかし読書という行為には、どこか重さがつきまとうのも事実です。

なぜそうなるのかということについて論じたエッセイがありました。

『源氏物語』などを現代語に翻訳した橋本治氏の文章です。

「本」というもの

「本」というものは、その中核に「ねばならない」がある。

だから、厄介だ。

早い話、本というものは、どこかで「お勉強をしなさい」と言っている。

本が苦手な人は、この壁が突破出来ない。

私自身の根っこにも、この「本であることの壁」がある。

「本」というものは、自分の世界観とは違う相手の世界観を、自分とは違う質の言語によって受け入れるようなものでもある。

つまり、すべての本は、「自分が苦手な外国語で書かれたもの」という一面を持つ。(中略)

Pexels / Pixabay

本を読む人間の数が減ってしまったから、「読書の楽しみ」をアピールしようとするが、読書がそう簡単に楽しいはずがない。

「楽しいから本を読もう」とか、「おもしろいから本を読もう」とアピールする前に必要なのは、「楽しむにしろなんにしろ、人生はまず学ぶことを必要とする」というアピールだ。

本を読むことがもっぱらに「楽しみ」である人たちは、読むことが苦にならないものばかりをもっぱらに読む。

そして「本を読むことは勉強だ」と思う人の多くは「本を読んで勉強していた過去」ばかりを頭に置く。

「私は過去において本を読んで、もう出来上がってしまったているので、今さら本は読まない」という大人はいくらでもいる。

その「衝撃」を「学んで意味のあること」と位置付けないと、本なんか読んでもなんの意味もない。

「本なんか読まなくても大丈夫」と思う人たちは、自分の中の「出来上がってしまった世界観だけで、なんとかやっていける人たちなのだ。

そして現代ではそこから問題が生まれる。

(中略)

私は、現在の問題の多くが「異質な他人に対する想像力の欠如」を原因としているとしか思えない。

そういう意味で「他人というテクスト読む」ができにくくなっているのだが、それはつまり「本をちゃんと読めない」と同じなのだ。

だからこそ、「本は要る」のだ。

(「本」というもの 橋本治)

本を読む意味

本を読むとは自分の世界観と違う相手の世界観を、自分とは違う質の言語によって受け入れるようなものだと橋本氏は述べています。

現代人はネットのシャワーの中で暮らしているのです。

バブル状態の中は、自分の好む内容だけに限られています。

そこにいる限り、安逸が約束されているワケです。

グーグルなどが作り出すアルゴリズムは、瞬時にその人の興味や関心を調べあげ、それに適したコンテンツだけを集中的に配置します。

その世界の中にいる限り、自分とは違う質の世界に飛躍する必要はありません。

無理な想像力を発揮する理由などないのです。

では、そこから抜け出ようとしたときはどうすればいいのか。

そのためにはこれを学ぼうという意志と謙虚さ、そして自分とは異なる世界観を受け入れて、自身の世界観を修正する覚悟が求められます。

これにはかなりの労力がいりますね。

結論から言えば、「異質な他人に対する想像力の欠如」が多くの問題を生んでいるのです。

これが現代そのものの持つ体質なのかもしれません。

「異質な世界観」と出くわす覚悟はどのようにしたら得られるのでしょうか。

それを考えてみようというのが、ここでの論点です。

ある意味、大変わかりやすい文章ですね。

しかし現実の自分が受け入れて実践していくことは、大変に難しいことでもあります。

橋本氏は「本」を読むことが自分とは異質な世界との出会いだと言い切っています。

だからこそ、読書が必要だともいうのです。

とはいえ、現代を生きている多くの人が、それを容易に受け入れられるでしょうか。

タイパとコスパを優先する生き方は「本」を読むことの対極に位置するのかもしれません。

自分の知らない世界にどこまで踏み込む勇気があるのか。

それが最も大切な分岐点のような気がします。

現代の人びとは自分の興味ある分野には、可能な限りの時間と費用をかけます。

しかしその境界を外れると、全く無関心になってしまうのです。

ここで最も必要なのは強い「覚悟」なのかもしれません。

自分にとって関心が広がらないところに、もしかしたら豊かな領域があるかもしれないからです。

フィルターバブルと呼ばれる、ネット空間の居心地の良さを一歩外れたところから、新しい景色を見るということの想像力が必要な所以です。

読書への糸口

読書の問題を論じていると、環境の持つ重みがすぐ念頭に浮かびます。

人間はどこまでいっても「環境」の動物です。

日常的に本に触れていれば、読書に対する抵抗感が低いことは容易に想像できます。

しかし時間がないとか、用事が他にあるとかいう理由が重なると、それだけ本に接する時間が短くなりがちです。

昔からよく言われている方法の1つに「つん読」「買っ読」というのがありますね。

「積んどく」や「買っとく」という日本語の響きとあわせてつくられた造語です。

基本的には買うだけではありません。

公共の図書館などで借りてもかまいません。

その本を目に触れるところに「積んでおく」ことが非常に効果的だという意見はたくさんあります。

これならば費用もかかりません。

しかしわざわざ図書室へ行って借りるという行為には動機づけが必要です。

それだけで手間ですからね。

そこで借りてくるのも1つの作業です。

その本を「積んで」目に届くところに置いておくのは、意味のある行為だといえます。

さらにもっとも効果的なのは友人を得ることでしょう。

読んだ本を他の人と交換するブックトレードをするとか、話し合うだけで、世界が確実に広がります。

イベントを開催することで、新しい本との出会いを増やすことができます。

さらにはデジタルメディアとの融合も重要です。

動画やポッドキャストなど、あらゆる手段を通じて本の内容を知りながら、新しい世界に飛躍する楽しみを知るということがあります。

短編でもいい。

さらには文学賞をとった作品だけを読む。

ドキュメンタリーや好きな人のエッセイを読むという作業も有効です。

最近では「独立書店」と呼ばれる独自の品ぞろえをするところも増えてきました。

そこで書店主と知り合いになれたら、新しい世界が一気に広がりますね。

ネットで「独立書店」と検索すれば、案外住んでいるところの近くにユニークな世界が広がっています。

喫茶店や飲食店を併設しているところもあります。

それが難しければ、電子書籍の利用も積極的に考えてみてください。

有料のものならば、最新の本が気楽に手に入ります。

無料の青空文庫の利用も意味があります。

紙媒体だけにこだわる必要はありません。

あらゆる方法を駆使して、想像力の翼を広げることです。

既に出来上がってしまった世界観だけで生きていくことの意味をあらためて考えてほしいのです。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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