「自信とプライド」枠の中に押し込められず日本で個性的に生きる道

小論文

いじめの構造

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は日本人の意識に関する評論を題材にします。

どんな人にでも、その総量は違えど、自信やプライドはありますね。

もちろん、それが前面に多くでる人と、ほとんど出ない人の差はあるでしょう。

それでも「個性」を大切にして自分らしく生きていこうという生き方は、まさに現代のものに違いありません。

だれもが自分を強くアピールできる時代になったのです。

しかし教育心理学者、梶田叡一氏はそれほど単純な構図ではないと釘を刺しています。

日本が成熟社会になっていくにつれ、選択が可能になったというのは、表面的なことにすぎないというのです。

「個性」と「自由」の2つを錦の御旗のようにしている若者たちも、一皮めくれば、やはり日本の古い慣習の中であえいでいるといいます。

「出過ぎた釘は打たれる」という表現を耳にしたことがあるはずです。

目立ちすぎれば、すぐそれに対する反動があります。

その筆頭が「いじめ」でしょう。

以前は暴力行為などが目立ちましたが、最近はSNSを使った外からはみえない「いじめ」が横行しています。

意識的にグループ活動から外してしまったり、必要な情報をわざと知らせないなどの陰湿ないじめがそれです。

学校等では「あだな」をつけることなどにも、非常に神経をとがらせています。

一見、やさしいネーミングのように聞こえるにも関わらず、その背後には辛辣ないじめ意識が潜んでいるからです。

以前、学校の教師どうしのいじめがマスコミをにぎわせたことがありました。

仕事のストレスを同僚に押しかぶせて、留飲を下げるという構図です。

なぜこのようなことが起きるのか。

日本型社会の構図

それが日本の社会だといってしまえば、それまでのことです。

「協調性」という言葉をよく使いますね。

日本人には、他人との違いを違いとして認め合うだけのバッファがないのでしょうか。

表面的な「和」は理解しているものの、きちんと相手との差異を理解して行動することが不十分なままということなのかもしれません。

逆にいえば、僅かな差が許せないのです。

だからその隙間を突こうとする。

それが「いじめ」という形で表面に浮かび上がってきます

梶田氏の著書に関連した記述がありました。

「自信」と「プライド」がキーワードです。

一部分を引用します。

本文

自信とプライドがなくては、力強く生きていくことができません。

自信もプライドもないままでは、積極的な気持ちも新たな意欲も生まれてきません。

特に、意地悪やいじめに負けない力、さらには偏見や差別を撥ね返す力として、

自分自身に自信を持ち、人間としてのプライドを持つことは必須の条件です。

自分自身に対して自信がなく、プライドが持てないままでは、

ほかの人ともうまく付き合えませんし、他人の目のある場に出ていくことさえもできなくなります。

そうした心理状態では、必要な自己主張もできず、ほかの人たちからたとえ不合理で

理不尽な扱いを受けても、泣き寝入りをしてしまうことになるでしょう。

しかし残念なことに、日本の子どもは他国の子どもに比べ、自信やプライドの水準が低いという調査結果があります。

誰かが強い自信や高いプライドを持っていると、周囲の人が眉をひそめがちという雰囲気が、日本の社会に根強くあるからなのでしょうか。

自信やプライドを持てば、その人の個性的な言動がどうしても表に出てくることになります。

そして個性的であること、目立つことは、周囲との和を乱す原因となることになります。

だから何事も控えめに、周囲の人の顔色をうかがいながら没個性的に生活する、

というのが日本の伝統的な文化の一面になっているのでしょうか。

自分独自のことを主張しようすると、必ずカウンターパンチ的な批判や冷笑、揚げ足取りが返ってきます。

何か自分独自の行動をとろうとすると、すぐにわがままだとか自己中心的だと指弾されます。

幸いにして独自の主張や行動がうまくいって評判になったりすることがあれば、

裏に回って悪口を言い合い、足を引っ張ろうとするする人たちが出てきます。

誰もが認める権威や伝統にしたがって没個性的に生きていかない限り、

周囲の人に受け入れられ、協調的な関係を保つことは困難なのです。

人を既成の枠の中に押し込めていくための、こうした伝統的な手立てが、

日本各地で現代でも日常生活の中に充満しているといっていいでしょう。

どうやって生きていけばいいのか

以下がこの文章に対する設問です。

あなたはこの文章を読み、他者と協調していくうえで、何が最も大切と考えるか。

800字で書きなさい、というものです。

正面きって反論するのはかなり難しいですね。

こういう場合は筆者の視点を重視しながら、足りない部分を補っていく形をとります。

日本の持つ特有な社会意識といってしまえば、そう言えないこともありません。

社会学的にみれば、かなり特徴があります。

昔からよく論じられてきたのは、単一民族が島の中で農作を中心として暮らしてきたことによる心性が、今も続いているというものです。

グローバル化した時代との関係をおさえていくことで、新鮮味を出すことができるかもしれません。

幾つかのポイントをおさえながら、例文を書いてみます。

解答例

日本において、自立した人間が、相互に協調して行動するために必要なこととは何か。

互いの顔色を見ながら、自己主張を抑圧して「和」を保つだけでは実りがない。

両者をバランスよく保ちつつ社会を少しでも前進させるために、いくつかの大切な要素が必要だ。

個性をうまく発揮しながら生きるには、文化や社会的な習慣に深く根ざした意味を知らなければならない。

一番大切なのは、発信する内容そのもの以前に、必要な要素が多々あるという点である。

ポイントは誰がそれを言ったのか、誰がその内容を伝えたのかということだ。

つまり主体となった人間の質が常に問われるのである。

日本では、相手に対する配慮や礼儀が最も重視される。

挨拶や言葉遣いが場のモードを逸脱したとき、その発言は意味をもたないと考えた方がよい。

よく言われることだが「空気を読む能力」ということである。

自信やプライドを示すのは決して悪いことではない。

しかしそれが過ぎると、反発が予想以上に強いものになりがちだ。

もっとも大切なことは問題の解決以前に、相手の意図や状況を観察する能力を身につけることである。

これを「空気を読む能力」と呼んでいる。

自分だけが突出することを避けるための必須項目である。

相手の気持ちや状況を考慮するとともに、最終的に自分の味方を増やすことにつながる。

うまく行動すれば、いじめを受けることもほぼなくなると考えていい。

他者の協力を得たい時にとるべき最善の方法だ。

日本では、個人よりも集団の利益が優先される傾向が強い。

集団の調和を乱さないように意識し、協力することが求められがちである。

プロジェクトを成功させたければ、他者の意見に耳を傾けチームワークで働くことをつねに意識することである。

しかしこのパターンの行動様式をとることは、時にストレスを感じさせることがあるだろう。

とはいえ、互いの違いを認めながら、手のつなぎ方を工夫するという柔軟性がないと、個人も組織も永続的に活動を続けることは不可能である。

また日本では時間を守ることを重視する。

鉄道などのダイヤが忠実に守られていることをみれば、一目瞭然だ。

時間にルーズであることは人格の拒否につながる。

個性は約束を守れる人格の中に宿ると考えられているからだ。

その上に立って拠り所をきちんと把握し、他者との違いを理解する行動の過程でしか、真の個人が成り立たないと考えるべきなのである。

未熟であってはならない。

十分に成熟した個が集い、差を認めあうという高度な関連の中にしか、現代の基盤は成り立ちえないのである。

確かに苦しい作業の連続だ。

しかしそれができなければ、ただの野合で終わるだけの結論が待っているのである。

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いかかでしょうか。

この後にあなたの経験などを短く印象的に挿入するなどすれば、さらに効果があがると思われます。

試みてください。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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