大福長者の金銭哲学
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は学校では1度もやったことがない徒然草の段を扱います。
第217段がそれです。
蓄財の話です。
兼好法師の金銭哲学が見事に描かれています。
なぜ教科書に載っていないのでしょうか。
あまりに内容が生々しいせいかもしれません。
この文はある大福長者の蓄財の心がけについて述べたものです。
井原西鶴の『日本永代蔵』を連想させますね。
扱った記事がありますので、リンクを貼っておきましょう。
とそれに対する兼好法師の考えを示したものです。
もちろん、兼好法師は、この長者の考えに賛成しているワケではありません。
鼻先で笑い飛ばしています。
その差が大きいだけに、おかしいですね。
大福長者は言います。
人はお金儲けに専念すべきだというのです。
無常観など持たず、お金のかかる用事に手を出さず、お金を神のように怖れなさいというのです。
恥をかいても気にせず、正直で約束を守れば富は集まり、欲望は満たされなくても楽しいという論理です。
それに対して兼好法師は、欲望も満たさない、お金も使わない生き方は貧乏人と同じで、なんの楽しみもないのではないかということです。
きっと正反対の立場だったのでしょう。
本文
或大福長者の云はく、人は万をさしおきて、ひたぶるに徳をつくべきなり。
貧しくては生けるかひなし。
富めるのみを人とす。
徳をつかんと思はば、すべからく、まづその心づかひを修行すべし。
その心といふは、他のことにあらず。
人間常住の思ひに住して、かりにも無常を観ずる事なかれ。
これ第一の用心なり。
次に万事の用をかなふべからず。
人の世にある、自他につけて所願無量なり。
欲に随ひて志を遂げんと思はば、百万の銭ありといふとも、しばらくも住すべからず。
所願はやむ時なし。
財は尽くる期(ご)あり。
限りある財をもちて、かぎりなき願ひにしたがふ事、得(う)べからず。
所願心にきざす事あらば、我をほろぼすべき悪念来れりと、かたく慎み恐れて、小要(しょうよう)をもなすべからず。
次に、銭を奴(やっこ)のごとくして使ひもちゐるものと知らば、長く貧苦を免るべからず。
君のごとく、神のごとく畏れ尊みて、従へもちゐることなかれ。
次に、恥に臨むといふとも、怒り恨むる事なかれ。
次に、正直にして約を固くすべし。
この義を守りて利を求めん人は、富の来たること、火の乾けるにつき、水の下れるにしたがふがごとくなるべし。
銭積りて尽きざる時は、宴飲(えんいん)・声色(せいしょく)をこととせず、居所(きょしょ)を飾らず、所願を成ぜざれども、心とこしなへに安く楽し」と申しき。
そもそも、人は所願を成ぜんがために、財を求む。
銭を財とすることは、願ひを叶ふるが故なり。
所願あれども叶へず、銭あれども用ゐざらんは、全く貧者と同じ。
何をか楽しびとせん。
現代語訳
ある大金持ちが言いました。
人はあらゆる事をさしおいて、ひたすらに富を身につけることに専念すべきなのです。
貧しくては生きているかいがありません。
世間は富んでいる者のみをまともな人間として扱うものなのです。
富を得ようとしたら、当然のこととして、富を得るための心構えを身に付けなければいけません。
その心構えというのは、他のことでもないのです。
世の中は永遠に変わらないという信念を固く守って、かりそめにもこの世は無常ではかないなどという感情ににとらわれたりしないことです。
これが第一の心構えです。
次にあらゆる夢をかなえようとしてはいけません。
人がこの世に生きている間は、自分のことも他人のことも、欲望は無限にあります。
欲望にまかせて願いを遂げようと思えば、百万の財産があったとしても、ほんの短い間も手許に残ることはないのです。
欲望にはきりがありません。
しかし財産には尽きる時があります。
有限の財産で無限の欲望に応ずることは、不可能なのです。
欲望が心にわきたつことがあれば、わが身を滅ぼす悪い考えが来たと、かたく慎しみ恐れて、ささいなことてもお金のかかることに手を出してはいけません。
次に、お金を使用人のように使い用いるものと考えるようになったら、貧乏から抜け出すことはできないのです。
主君のように、神のように畏れ敬って、思いにまかせて使うなどということをしてはいけません
また金銭上のことで恥をかくような目にあったとしても、怒ったり恨んだりすることがあってはなりません。
人は正直にしてつねに約束を固く守らなくてはいけません。
この道義を守って利益を求めるような人には、富がやって来ることは火がかわいた所について、水が低い所に流れるようになるのと同じで確実なことなのです。
お金がたまって尽きない時は、酒宴・音楽・女人などに熱中することもなく、住居を飾る気もしなくなるものです。
欲望をすべて果たせないといっても、心は永遠に安らかで楽しいものなのです。
だいたい人間というものは、欲望を自分のものにするために財宝を求めるのです。
お金を財宝として喜ぶのは、それが人間の欲望をかなえてくれるからです。
人間の欲望は無限なので、全て満たされることはありえません。
それでも財産が増えていくことはそれだけで楽しく愉快なのです。
兼好の考え方
兼好はこう言っています。
この長者の言葉は、どうということはありません。
お金持ちになる希望など捨てて、貧乏に甘んじろというのは教えではないのはないでしょうか、と。
欲望があっても満たさず、お金があっても使わないとしたら、それは貧乏人と同じです。
いくらお金があっても何を楽しみにしたらいいのでしょうか。
なんにもいいことがないではありませんか。
あなたもそう思いませんか。
さてどちらが正論なのでしょうか
無常観とお金の関係についての論争は面白いですね。
確かに大福長者の言うように、人の命がはかないと思ったら、お金を貯める気もなくなってしまうのかもしれません。
来世へ現金を持っていくことはできませんしね。
大福長者はどこまでいっても欲望の存在を強調します。
それが生きる力の源泉になるのでしょう。
一方の兼好法師はどうなのか。
たとえ、お金があっても使わないとしたら、それは貧乏人と同じだと言い切る考えは潔いです。
あなたはどちらの考え方に賛成ですか。
これだけでディベートの題材になるかもしれません。
永遠のテーマと言えます。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。