小論文の力を養う
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は京都大学の現代文の問題に挑みます。
『京大現代文で読解力を鍛える』というユニークなタイトルの参考書がありました。
著者は出口汪(ひろし)氏です。
その中から目についた文章を、ピックアップして考えてみます。
現代文の入試問題のテーマはほぼ無限にありますね。
小論文についても同様です。
どこまで書ければ完成ということはおそらくないに違いありません。
その時点であなたの書いた文章がすべてなのです。
それ以外の書き方はできないはずです。
感情、知識、視線、理解力、想像力、そのすべてを総動員して、決められた時間内で書き切ったものが、あなたそのものなのです。
ある意味で、怖いですね。
それを採点者がどう評価するのか。
結果として、合否が決まります。
国語の試験のかわりに小論文を課す大学も幾つかあります。
推薦入試ではごくあたりまえですが、一般入試にも見られます。
逆にいえば、通常の国語の試験で測れる読解レベルを担保できると信じているからでしょう。
時によっては、逆にもっと難しい場合もあるかもしれません。
課題文やグラフなどをどう理解し分析したか。
そこからどのような認識を手にし、その結果として、結論をどうまとめたのか。
全てが1つのレールの上を流れていくかのようです。
そこで採点された結果があなたの実力なのです。
入試問題作成者の考え
内容がきちんとわかっているようで、結局何も見えていなかったということも当然あるでしょう。
あるいは自分でこれだと認識した以上の内容を、偶然その時に展開できた可能性もあります。
課題文を考えるとき、意外性に満ちた内容の文章が飛び出す確率が、どの程度あるのかを問題作成者は推理します。
当然のことながら、彼らはたくさんの評論やエッセイを読みます。
その中で、作成者自身も新しい視点を探しているのです。
自分自身がインスパイアーされる文章であり、考え方をです。
使い古された言葉や概念が、全く生まれ変わるのかもしれない可能性を知りたいのです。
受験生にとっては脅威になる瞬間ですね。
もっといえば、そういう課題文こそが、採点で差をつけやすいのかもしれません。
だれもが似たような思考回路になるテーマなら、面白くないでしょう。
同じ道を歩かない答案を掬いあげることも、採点の醍醐味です。
そういう意味でユニークな課題文を探すことは、緊張感に満ちた作業なのです。
今回は2004年、京都大学で出題された国語の文章を読みます。
小論文の課題ではありません。
しかし置き換えることは可能です。
今回の問題の筆者は小説家、野上弥栄子です。
『秀吉と利休』などで有名ですね。
夏目漱石の推薦で小説を書くようになり、その後約80年間、文筆活動を続けました。
内容は教養とは何かという、非常に本質的な文章です。
留学前の息子にあてた手紙
課題は彼女が1936年に書いた長男、野口素一に当てて書いた手紙です。
イタリア文学者の素一が2年間ローマに留学するにあたって、手渡したものです。
その文面は息子に対する母の愛情に溢れています。
素一は後に京大教授となりました。
この文章を読むと、当時の作家は文化人であったことがよくわかります。
彼女にとって知識と教養は明らかに異なるものでした。
課題文の一部をここに掲載します。
設問は、この文章を読んで、教養とは何かというあなたの考えを800字にまとめなさい、というものです。
課題文
若い溌溂とした感受性と疲れを知らない理解力であらゆることを知り、探求し、学び取ることは、まことにあなた方に課せられた、またそれ故にこそ意義ある愉しい征服ではないでしょうか。
それとともに忘れてならないのはあなた方の吸収した専攻学科の知識をただそれだけの孤立したものとしないで、人格的な纏まりのある1つの立派な教養にまで押しひろげるように心掛くべきことだと信じます。
それではなにが教養かということについてはいろいろ複雑な規定を必要とするでしょう。
しかし最も素朴な考え方をすれば、知識が単に知識として遊離しないで総合的な調和ある形で人間と生活の中に結びつくことだといってよいだろうと思います。
普通、それとともに対句のように並べられる趣味と非常に似通っているようで内容的に遠い距離がその間にあるのも、それはただ生活と事物のほどよい味わい方を知ることであり、これはもっと根の深い積極性をもっているためであります。
同時にまた趣味のある暮らし方をするということが、有閑的な無駄な消費生活と見做されるように、教養も尊敬の代わりに軽蔑と反抗で否定されかねない場合があります。(中略)
しかし現代の日本の高等学校ないし大学の教育で彼らが多すぎたことを怖れるほど豊富な知識が果たして与えられているでしょうか。
豊富に見えながら単に雑多な、きれぎれの、基礎的なものから遊離した知的断片が押し込まれていないと誰が証明し得るでしょう。(中略)
はじめ私は教養を素朴に規定して知識が単に知識として遊離しないで人間と生活の中に総合的な調和ある形で結びつくことだ、といったと思います。
が、ここでもう少しくわしく言い直して、人々がよい教養をもつということはその専攻した知識を、もしくはさまざまな人生経験を基礎としてひろい世界についても周りの社会に対しても正しい認識をもつとともに、つねに新鮮で進歩的な文化意識に生きることだというところまでその円周を押しひろげたく思います。
またそうすることによって教養が人間性の完成にいかに深い意義をもつかを証明することが出来るのですから。
働いても働いても食べられないというような人間をなくするばかりでなく、耕地で土まみれになったり、工場で綿埃をあびたりしている男たちや女たちが、仕事着を脱いで一服吸いつける時にはどんな高い知識や文化についても語り合えるような教養人になってこそはじめて立派な進歩した社会といえるのではないでしょうか。
真の教養とは
小論文を書くにあたって、まず課題文をじっくり読むことが大切です。
次にキーワードを探します。
ここで筆者は何が教養だといっていますか。
その文章はどこにありますか。
①教養があるとは、知識が単に知識として遊離しないで、人間と生活の中に総合的な調和ある形で結びついていること
②学んだ知識や人生経験を基礎としてひろい世界についても周りの社会に対しても正しい認識をもつとともに、つねに新鮮で進歩的な文化意識を持って生きること
この2つに集約されると筆者は述べています。
①が基本だとすれば、②はその発展系です。
彼女は断片的な知識の集積を教養とは認めていません。
真の教養は知識として身体から離れたものではないのです。
知識と経験が融合し、それが社会との関係の中でつねに新鮮で進歩的でなければなないとしています。
これを実践するのは、それほど簡単ではありません。
クイズ王は無意味なのです。
身体の中に沁みこんだ知識や体験が、所作事や行動の中に自然と滲み出てくるものでなければなりません。
真の教養とは言葉遣いにしても、動作ひとつにしても、そこにある種の文化意識が宿っているものなのです。
では実際にどうすれば、教養が身につくのか。
そこがこの小論文の最大のキモになるのではないでしょうか。
あなたも自分で少し考えてみてください。
とにかく800字を書ききることが大切です。
試みることをお勧めします。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。