【晋書・周処伝】自らの行いを反省し修養して重職に就いた名将【除三害】

周処伝

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は漢文の中でもめったにやらない『晋書』(しんじょ)を扱います。

全体で130巻はあるという書物です。

唐の太宗が房玄齢や李延寿らに命じて編纂させた史書なのです。

孤児の周処は異常な力持ちの若者でした。

彼は呉の有力な豪族の家に生まれたものの、父の晩年の子であったため、幼くして父親を失ったのです。

あまりにも素行が悪く、三害の1つに数えられていました。

ある時、長老と約束をし、白い額の猛獣(虎)と蛟(みずち)を退治します。

蛟というのは水中に住むという妖怪です。

蛇に似て、四足があるという想像上の動物なのです。

長さもはっきりとはわかっていません。

ところで長老が語る3つ目の害とは、周処自身のことでした。

この話のポイントは虎と蛟を退治して帰ってきた時、さぞや村人たちが喜んでいるだろうと勝手に決めてかかった周処の愚かさにあります。

郷里の人々が喜んでいたのは、周処が死んだものと思っていたからなのです。

虎や蛟よりも厄介者扱いされたいたのは、彼自身だったというワケです。

戻ってきた周処は、自分がどれほど人々に嫌われていたかに気づきます。

この時の「周処除三害」の故事は京劇の演目にもなっています。

チャンスがあったら是非、ご覧くださいね。

ここから話は一気に周処の生きざまを描写していきます。

自らの身を修めようとして、自分の可能性を広げていくのです。

師と仰いだ人に「古代の人は『朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり』と言いました。

あなたはまだ前途に見込みがありますよ」、と励まされるのです。

周処は行ないを改め学問に励み、翌年には州に招かれ、呉の東観左丞となったと言われています。

今回の話は、物語の発端のところです。

漢文のリズムを味わってみてください。

書き下し文

周処少(わか)くして孤なり。

未だ弱冠ならずして、膂力(りょうりょく)は人に絶し、好んで馳騁田獵(ちていでんりょう)す。

細行(さいこう)を脩(おさ)めず、情を縱(ほしいまま)にし欲を肆(ほしいまま)にす。

州曲之を患(うれ)へ、処も自(みずか)ら人の悪(にく)む所と為るを知る。

乃(すなわ)ち慨然(がいぜん)として改励の志有り。

父老に謂ひて曰く、「今、時和(やわら)ぎ歳(とし)は豊かなるに、何ぞ苦みて楽しまざるか」と。

父老嘆じて曰く、「三害未だ除かれず、何の楽しみか之れ有らん」と。

処曰く、「何の謂ひぞや」と。

答へて曰く、「南山の白額の猛獸、長橋の下に蛟、子と併せて三と為す」と。

処曰く、「此の患(かん)と為すがごとき、吾能く之を除かん」と。

EliasSch / Pixabay

父老曰く、「子若(も)し之を除かば、則ち一郡の大慶なり。徒(ただ)に害を去るのみに非ず」と。

処乃(すなわ)ち山に入りて猛獸を射殺し、因(よ)りて水に投じて蛟を搏つ。

蛟或いは沈み或いは浮き、行くこと数十里。

而して処之(これ)と俱に経(ふ)ること三日三夜。

人死せりと謂(おも)ひて、皆相(あい)慶賀す。

処果たして蛟を殺して反(かえ)る。

郷里の相慶ぶを聞き、始めて人の己を患ふるの甚(はなはだ)しきを知る。

現代語訳

周処は若くして父を失いました。

二十歳になる前から、膂力が人より優れ、馬を駆り狩猟することを好みました。

しかし、細かな礼法を守らず、感情と欲望のままに行動するので、郷里では彼を煩わしく思う人が多かったのです。

彼は長老に向かって、「穀物が豊かに実っていますが、なぜ皆は楽しもうとしないのですか」と訊ねました。

すると長老は嘆きながら、「三つの害がまだ除かれていないのだ。どうして楽しめようか」と呟きました。

周処は、「三つとは何のことを言うのでしょうか」と重ねて問いました。

長老は答えて、「南山に白い額の虎がいる、長橋の下には蛟(みずち)がいる、さらにお前とあわせて三つの害だ」と言ったのです。

その時、周処は3つ目の害にまで、全く考えが及びませんでした。

周処は、「もしこれらが心配の種だというのなら、私が取り除いてみせます」と告げました。

長老は、「おまえがもし取り除いてくれるなら、我々にとってこれ以上の大きな慶びはない。」と言いました。

周処はそこで山に入って虎を射殺し、続いて水に飛び込んで蛟(みずち)と格闘し続けました。

蛟は沈んだり浮いたりして、水中を数十里も進み、それでも周処はしがみつき、三日三晩が過ぎ去ったのです。

人々は周処が返ってこないのでついに蛟と一緒に死んだと思い、皆で祝福しあっていました。

周処が蛟を殺して戻ってくると、郷里の人々が、自分がいなくなって、厄介者が消えたと慶びあっているのを知ったのです。

この様子を自分の目で確かめた周処は、はじめて人から本当に嫌われていたことに気づきました。

除三害

周処(236~297)は中国三国時代から西晋の武将です。

彼は自分が人々に嫌われていることを知っていました。

だからこそ、村人たちのために何かできることをして、人気を挽回しようとしたのでしょう。

しかしそれ以上に厄介者扱いをされていたことに気がつかなかったというところが、哀しいですね。

人間はどこまていっても自分のことは見えないものです。

そこまで冷静にきちんと自己評価ができれば、なんの苦労もありません。

周処は自分が嫌われていることを知ってはいました。

行いを改めようと決意したのです。

しかし冷静に周囲の状況を判断して決意したというのではありません。

つい一時の怒りからかっとして、瞬時に判断したものと思われます。

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周処は後、道義による教育を手厚くし、また引き取りのない死骸などを回収して埋葬したとも言われています。

その後も窮地は何度も続きました。

三国時代の終わりに、周処は西晋に仕え、この時代の名将となりました。

しかし、正直な性格が仇となりました。

反乱軍を迎え討つ途中、故意に支援を打ち切られたりもしています。

周処は、自ら死に時だと覚悟を決めました。

命令を受けた日から一歩も後退することなく、全軍を挙げて戦い続けたのです。

最後まで命懸けで忠義を尽くし、亡くなりました。

若い頃に「三害」と呼ばれた彼が、自分の身上を「義」に置き、時代を駆け抜けたのです。

新平郡太守・広漢郡太守・彭城郡内史の重職を歴任し優れた業績を残しました。

老いた母親のために、帰郷しようとしたものの、それも果たせず戦死したのです。

彼の若い時代の話を読むにつけ、人の一生の重みを感じます。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。 

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