文化が違うとは
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は現代アラビア文学、第三世界思想を研究している岡真理氏の評論を読みます。
教材は『論理国語』の教科書からとりました。
ぼくたちは何かの判断をする時、「それは文化が違うからだ」とよくいいます。
しかしその根本のところを探ってみると、それほど単純に言いきれるものではなく、複雑なものだというのがここでの考え方です。
アラブ文学を研究していると、多くの壁にぶち当たるそうです。
その1つのキーワードがまさに「文化」です。
研究者であっても、つい欧米の文化を基準にしてものごとを考えてしまいがちになるとか。
全く意識はしていないものの、何かの善悪を判断しようとすると、そこにすぐ文化観の違いが顔を出すのです。
絶対的に正しいなどという価値判断は、本来ないはずです。
しかしアジア、アフリカ、南米各国の文化と、欧米の文化を全く同等に見ているのかと言えば、必ずしもそう単純にはYesと言いきれません。
つい自国の文化を中心に、価値判断をしている傾向はないでしょうか。
それを完全に否定し、それぞれの文化を大切にし、尊重するという立場が「相対的」な文化観です。
全ての文化がまさに同じ価値を持つという視点です。
現在の世界の流れは、ここにあるといえるでしょう。
すべての文化に価値の差はなく、それぞれには歴史や意味があるのだとする考え方です。
したがって、一切の優劣はつけません。
しかし日々の暮らしをみていると、そう単純にいいきれない側面も多々あるのです。
ここで評論の1部を読んでみましょう。
キーワードをチェックしながら、論旨を掴み取ってください。
本文
「イスラーム」という「文化」の違いは、女性たちがかぶるスカーフという実に目に見えやすい形で現象している。
その、目に見える違い、つまり「文化の違い」ということがにわかに、現代においてなお人々が厳格に宗教的に生きているイスラーム社会、特殊な社会というイメージを生み出す。
つまり、私たちと彼らは、実はそんなに違わない、ということだ。
少なくとも、同じ人間として理解できないほど違う、というわけでは決してない。
そして、このとき「文化の違い」とは、私たちには一見すると、私たちとの異質性を物語るような具体的な違い、「私たち」と「彼ら」の間の可視化された差異について、それが同じ人間として十分理解可能であることを示してくれるものなのだ。
「文化の違い」をこのようなものとして考えるならば、「文化が違う」ということは、彼我の間の通約不能な異質性を意味するものではなく、反対に、人がそれぞれの社会で生きている現実の細部の違いを越えて、理解し合う可能性を表すものとなる。
「理解する」とは、それを丸ごと肯定することとは違う。
むしろ、私たちは「理解する」からこそ、そこにおいて、批判も含めた対話が、他者との間で可能になるのではないだろうか。
そして、理解することなく、「これが彼らの文化だ、彼らの価値観だ。」と丸ごと肯定している限り、抹消され、私たちの目には見えないでいる、その文化内部の多様な差異やせめぎ合い、揺らぎや葛藤もまた、私たちが「理解」しようとすることで立ち現れてくるだろう。
他文化を自分たちとは異質だ、特殊だと決めつける視線、それは、自分たちもまた、形こそ違え、実は彼らとおなじようなことをしている、同じように生きている、という、批判的な自己認識を欠いたものである。
そして、この自文化に対する批判的な自己認識を欠落させた視線が、かつて自らの「普遍性」を僭称し、他文化を「野蛮」と貶めたのではなかったろうか。
文化相対主義とはまずもって、そうした自文化中心主義的な態度に対する批判としてあることを、私たちは確認しておこう。
日本社会も宗教的
この文章を読んでいて感じるのはなるほど、その通りだという同感の気持ちが強くなることです。
ぼくたちはイスラムの人達を、一般に宗教的な民族だと考えます。
しかし彼らにいわせると、日本人の方が、よほど宗教的だというのです。
例えば何かを祈願する時に、よく絵馬を奉納します。
正月には多くの人が神社に初詣に出かけ、柏手を打ったりもします。
七五三で神社に参拝し、おみくじを引き、仏壇にお供えをしたり、お盆に法事をする家もあります。
これらの行動をみていると、日本人はなんと宗教的な民族だろうと感じるというのです。
しかし日本人の側からみれば、別に特殊なことをしているという意識はありません。
おそらく年中行事の1つにすぎないのでしょう。
当たり前の日常の風景なのです。
宗教の行事だなどとは思っていないはずです。
ところがイスラムの人をみた途端、毎日、メッカの方向へ向かって祈りを捧げると聞いただけで、なんと宗教的なことかと、驚いてしまいます。
あるいはスカーフを被る女性の姿を見ただけで、厳格なイスラム社会の断片をそこに読み取ります。
長年の生活習慣の中にある、これらの文化をどうみればいいのか。
ここで生きてくるのが文中にあった「私たちと彼らは、実はそんなに違わない」という表現です。
固有の文化が自分たちにはあり、それはあなた方のものとは全く違うと考えるのではなく、根本は同じだと考えましょうという発想です。
ここが理解できないと、この文章は何を主張しているのかわからなくなります。
たとえ、形は違って見えても、底に流れる図式は全くおなじだということなのです。
だから理解が可能になるはずだというのが、岡真理氏の基本的なスタンスです。
自分が正しくて、あなたが間違っているという構図ではありません。
想像力を広げれば、文化の差だと叫んでいることがらが、急速に近寄ってくるのです。
文化相対主義
自分の育った文化で、相手を判断しようとする考え方を改め直さなければなりません。
普遍性はどちらにもあり、それほどに違うものではないのです。
一方が優れていて、一方が劣っていると判断するのは、ある意味簡単かもしれません。
つねに自分の側に覇権意識を持てばいいだけのことです。
しかしそれでは何も解決しないことが、今までに幾らでもありました。
たとえば、大国がしてきたことには何がありますか。
政治、経済、軍事を押さえた後、他国の文化までも同じにしてしまおうとしたのです。
かつてイギリスやフランスは、アフリカにたくさんの植民地を作りました。
彼らが最初にしたことは、現地の言語を自国の言葉にかえさせたことです。
今でもアフリカへ行くと、英語やフランス語での会話が普通になっています。
その流れで、移民がヨーロッパにあふれ、政治問題化していることは、承知の通りです。
イギリス人やフランス人にとって、3Kにあたる職場には、かなりのアフリカ系住民がいます。
彼らは英語やフランス語で教育を受けてきました。
文化相対主義の観点から言えば、この同化政策は一種の犯罪に近いものです。
他文化を野蛮と考えるのは容易いことです。
しかしその背後にある思想をきちんと把握しないで、軽々に行動することは慎まなければいけません。
ジェンダーの思想などを勉強していると、イスラム法の人権意識が偏っていることに気づかされます。
そうした場合、どのように想像力を働かせればいいのか。
女性の権利を認めない国家は、存在するべきではないと断罪することも可能です。
しかしここですぐに武力を用いるなどという解決法は、あまりにも短兵急に過ぎます。
解決への糸口は容易ではありません。
しかし文化の違いを冷静に見て取りながら、一歩ずつ進む以外に道がないことも事実なのです。
この論点について、ぜひ800字程度でまとめてみてください。
道のりがけっして平坦でないことだけは、認識しておかなければなりません。
今回も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。