【白河の関】東北人にとってこの関所を越えることの意味は【奥の細道】

ノート

白河の関

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は白河の関について考えます。

夏の甲子園大会のことを少しだけ思い出してください。

番狂わせがいろいろとありました。

大阪桐蔭が負けたのも大きいです。

それよりも決勝戦のスローガンがすごかったですね。

優勝旗を東北へ。

白河の関を越えろというのです。

東京で生まれたぼくには想像もつかない表現でした。

家人は東北の生まれなので、やはり強いシンパシーを感じたようです。

なにがなんでも白河の関を越えたい。

これが東北人の悲願だったのです。

今までに何度もチャンスがありました。

しかしいつも決勝戦で負けてしまっていたのです。

準優勝ではなく、優勝旗を。

自分たちの手で白河の関を越える。

これが合い言葉でした。

ついに仙台育英高校が快挙を遂げたのです。

2022年の第104回全国高校野球選手権大会がその晴れの場でした。

8月22日の決勝戦で仙台育英は下関国際を8-1で下し、東北初の甲子園制覇を決めたのです。

信じられないことに、選手たちが乗った新幹線を空からの映像で追ったニュースまであらわれました。

たった今、白河を越えたというのです。

家人も感動してました。

ぼくには全くその気持ちが理解ができず、途方にくれましたね。

陸奥の玄関口

白河の関というのは、日本にとってかなり象徴的な場所の1つなのです。

一言でいえば、陸奥の玄関口です。

テレビで中継を何度もしていました。

所在地は福島県白河市旗宿です。

白川神社が祀られています。

今となっては別にこれといった史跡でもありません。

しかしここは下野国(栃木県)と陸奥国(福島県)との国境なのです。

つまり関東地方と東北地方との境界といってもかまいません。

東北の人にとってはここから先が自分たちの領域なのです。

白河の関より北に位置する土地、それが東北地方です。

その他に鼠ヶ関(ねずがせき)、勿来関(なこそのせき)という「奥州三関」のまさら玄関口にあります。

昔から多くの歌人たちが、この関を歌にしてきました。

「都には まだ青葉にて 見しかども 紅葉散り敷く 白河の関」源頼政

「たよりあらば いかで都へ 告げやらむ 今日白河の関は 越えぬと」平兼盛

「都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」能因法師

京の都と白河の関との距離感がよく出ていますね。

本当に京の都からみたら、地の果てだったのでしょう。

彼らは実際に旅をしたのでしょうか。

能因法師が全国を旅したことは事実です。

やはり実際に行ったと考えていいのではないでしょうか。

奥の細道

白河といえば、なんといっても『奥の細道』です。

原文を少し読んでみましょう。

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心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定りぬ。

いかで都へと便り求しも理なり。

中にも此関は三関の一にして、風騒の人心をとどむ。

秋風を耳に残し、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉のこずえなほあはれなり。

卯の花の白妙(しろたえ)に、いばらの花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。

古人冠を正し衣装を改めしことなど、清輔の筆にもとどめ置れしとぞ。

卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良

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現代語訳

不安で落ち着かない日々を重ねるうちに、白河の関にさしかかって旅をするのだという心が決まりました。

(昔、平兼盛が白河の関を越えた感動を)「どうにかして都に(伝えたい)。」

と(思いを伝える)つてを求めたのも理にかなっています。

数ある関所の中でもこの白河の関は三関の1つに数えられ、風雅の人が心を寄せる場所です。

能因法師の歌を思い出すと、秋風が耳に残るようであり、源頼政の歌を思い出すと、今はまだ青葉である梢の葉もよりいっそう趣深く感じるのです。

卯の花が真っ白に咲いているところに、いばらの花が咲き混じっていて、雪の降る白河の関を越えるような心地がします。

昔の人たちは、冠を正し衣装を改めてから関を越えたということが、藤原清輔の書き物にも記されています。

卯の花を花飾りにして、白河の関を越えるための晴れ着としましょう。

旅心定まりぬ

白河の関は東北への入り口です。

ここまできて、もう戻ることはできないと芭蕉も覚悟を決めたのでしょう。

古来、歌枕として何度も詠まれてはいたものの、元禄2年のこの時には、もう何もなかったといいます。

しかし彼の心の中には確かに大きな関があったのです。

「旅心定まりぬ」という言葉は重いですね。

もう戻ることはできないという覚悟です。

東北への旅はそれだけの重みを持っていたということがよくわかります。

かつて多くの歌人たちが通った道を自分も同じように歩く。

そして歌のこころを感じ取る。

わずか17文字の中にその思いを埋め込む作業は、彼の人生そのものだったのでしょう。

その精神的な支えがまさにこの地だったのです。

そういう意味で、東北人がなぜこれほどに白河の関を声高に叫ぶのかという気持ちもわからないではありません。

関東とは明らかに違う道の奥(みちのく)だったのです。

そこには何が待っているかわからない。

当然、死も予想されたでしょう。

それでも行くという決意です。

それは人間としての一抹の寂しさにも通じる。

若山牧水が後にうたった有名な短歌がありますね。

幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく

山眠る山のふもとに海眠るかなしき春の国を旅ゆく

日本人は放浪する詩人が好きです。

まさに人生そのものだからではないでしょうか。

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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