黒い雨の意味
広島に原爆が投下された直後に降ったのが「黒い雨」と呼ばれるものです。
1989に公開された今村昌平監督の映画「黒い雨」が発端です。
井伏鱒二の同名小説を映画化した作品です。
原爆による黒い雨を浴びたたために人生を狂わされた1人の若い女性を中心に描かれました。
井伏鱒二は作品の中で「降つてくるのは万年筆ぐらいな太さの棒のやうな雨であった。真夏だといふのに、ぞくぞくするほど寒かった」と記しています。
全編にわたって、被爆後遺症に苦しむ人々の姿を静かに淡々と描いています。
1945年8月6日、広島に原爆が投下されたことは誰もが知っています。
修学旅行などで平和資料館を訪れた人も多いに違いありません。
衝撃的な展示に言葉を失ったことと思います。
郊外の疎開先にいた作中の主人公は直後に降ってきた真っ黒な雨を浴びてしまったのです。
原爆の後遺症に悩んだ人々にとって「黒い雨」という表現は呪わしいものの代名詞になりました。
放射性物質を含む雨で健康被害を受けたと訴えた裁判がそれです。
「黒い雨」訴訟と呼ばれてきました。
広島高等裁判所はついに原告全員を被爆者と認めたのです。
なぜ裁判になったのでしょうか。
理由は簡単です。
その後の調査で強く降った地域が特定されたからです。
爆心地からおよそ南北19キロ、東西11キロですの地点がそれです。
この結果を元に国は「援護区域」を指定しました。
この中にいた人は、健康診断を無料で受けることができるようになりました。
国が指定した11種類の病気のいずれかを発症した場合、被爆者健康手帳が交付されます。
医療費なども支給されることになりました。
ところが、問題はこの地域の外側にいた人です。
今回の84人の原告は、援護を受けられない、楕円形の外側の住民なのです。
なぜ1つの川をはさんだだけで、補償の対象にならないのか。
それが最大の争点でした。
気象台の調査
記録の取り方に、当時の気象台が持つ能力の問題もあったと思われます。
終戦直後の昭和20年9月から12月の間に、この観測に取り組んだ職員はわずか6人だけでした。
爆心地から少し離れた地点の観測はどうしても不十分だったと言わざるをえません。
強い雨が降った地域が重点的な観測の対象になりました。
しかしその周囲にまで手が届かなかったのが実情なのです。
原告の1人は川を挟んだすぐ外側で、黒い雨を浴びました。
自宅に井戸がなく、沢の水を飲み、雨が降った後に収穫した野菜を食べました。
弟は肝硬変で亡くなり、原告自身も白内障を発症し手術を受けました。
しかし、区域外のため、あらゆる補償の対象外だったのです。
広島市はその後、かなり大きな調査をしています。
分析の結果、黒い雨の降った地域は補償の対象となった地区の6倍に広がる可能性があることが分かりました。
しかし国はその事実を認めようとしなかったのです。
援護区域を決めるのは国です。
しかし被害者に対する交付事務を行うのは自治体なのです。
長い裁判は事務を担う広島市や県が被告となり、国の方針に従って争い続けるという形になりました。
結局、判決は黒い雨の範囲を広げるというものになりました。
放射性物質を体内に取り込んだ可能性を検討する必要があるという結論に達したのです。
被爆者健康手帳の交付がついに命じられました。
国は上告しないと判断したのです。
判決が確定した瞬間です。
エノラ・ゲイ
ワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館でエノラ・ゲイを見たのは、もうかなり前のことです。
この名前をご存知ですか。
広島に原爆を落とした飛行機の愛称です。
100万人マーチが始まるとかで、市内は数日前から黒人で騒然としていました。
この飛行機の展示については、アメリカ国内でも賛否が分かれ、それだけにかなり神経を使っているようにも見えました。
しかし大半のアメリカ人は、そんなことには関係なく、はじめて原爆を落としたB29の特別機がきれいに保存されていることに、驚きを隠せないようでした。
もちろん、日本人の見学者も館内にはいました。
戦争を経験してきた人たちはかなり複雑な思いを抱いて見たことと思います。
これがあの飛行機なのかという面持ちで、きらきらと光る飛行機をじっと見つめている人もいました。
その横で、テレビは出撃当日の様子を屈託なく映しています。
広島市への原子爆弾は、第2次世界大戦末期の1945年8月6日午前8時15分に投下されました。
米軍が日本の広島市に対して世界で初めて原子爆弾「リトルボーイ」を使用したのです。
人類史上初めて、都市に対する核攻撃でした。
攻撃により当時の広島市の人口35万人のうち9万~16万6千人が被爆しました。
2~4か月以内に死亡したとされています。
原爆投下後の被爆者も含め被爆者の総数は56万人です。
その原子爆弾を落とした飛行機そのものが目の前に展示されていました。
銀色のきれいな飛行機でしたね。
乗組員が笑顔で記念写真をとり、エノラ・ゲイに乗る瞬間の映像は、嘘のように明るかったです。
飛行機内での様子や、さらには日本上空の様子、広島に原爆を落とす瞬間の映像が公開されていました。
原爆資料館との対比
それらは広島の原爆資料館に展示されたものと対比をなしています。
影になったまま、階段で消えてしまった人と、この飛行機から、爆弾を落とした人の間にはどれほどの差があるのか。
折れ曲がった水筒や、燃えた旗と、この航空隊員との笑顔の差は何か。
人間は過去に学ばない生き物のようです。
いや学べないのかもしれません。
全てを破壊しつくさないとまた復活しないとでも思っているのでしょうか。
原爆投下のこの日が近くなると、なぜかあのエノラ・ゲイを自分の目で見た日のことを思い出します。
おりしも現在はオリンピックの最中です。
東京はついに3000人を超すコロナの陽性者数に達しました。
緊急事態宣言は首都圏3県に広がることになりました。
病床ベッドの圧迫も危惧されています。
IOCの会長が開会直前に広島を訪れたことにも、かなりの議論が巻き起こりました。
平和を自分の都合で利用し、市民の心を蹂躙したと感じた人も多いようです。
みごとなくらい修繕され、おもちゃのようにキラキラと美しく光っていたエノラゲイと現在のオリンピック、コロナ禍を比較すると、複雑な思いがしてなりません。
判決後、首相の談話はこれで訴訟にも決着がついたという明るいものでした。
オリンピック後の選挙や政治にからむ決断であるのは、誰がみても明らかです。
前首相の原発アンダーコントロール発言から数年。
福島からの復興五輪が今まさに開催されているのを見ると、なんと表現していいのかわからなくなります。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。