右大臣道真
みなさん、こんにちは。
今回は菅原道真について考えてみましょう。
受験生にとっては親しみのある人ですね。
入学試験前になると、天神様を訪れます。
東京にも亀戸、湯島、谷保などにあります。
学問の神様です。
もちろん1番有名なのは福岡県の大宰府天満宮です。
ここは菅原道真が流されて死去した土地なのです。
ではなぜそのようなところに神社があるのか。
まさに道真の心の世界がそこに広がっているというワケです。
一言でいえば、怨念ですかね。
『大鏡』の中の1節を読んでみましょう。
本文
この大臣、子どもあまたおはせしに、女君たちは婿取り、男君たちは皆、ほどほどにつけ
て位どもおはせしを、それも皆方方に流され給ひてかなしきに、幼くおはしける男君、女
君たち慕ひ泣きておはしければ、
「小さきはあへなむ。」
と、朝廷も許させ給ひしぞかし。帝の御掟、きはめてあやにくにおはしませば、この御子
どもを、同じ方につかはさざりけり。方々にいとかなしく思し召して、御前の梅の花を御
覧じて、
東風吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ
また、亭子の帝に聞こえさせ給ふ、
流れゆくわれはみくづとなりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ (中略)
また、かの筑紫にて、九月九日、菊の花を御覧じけるついでに、いまだ京におはしましし
時、九月の今宵、内裏にて菊の宴ありしに、この大臣の作らせ給ひける詩を、帝かしこく
感じ給ひて、御衣賜はり給へりしを、筑紫にもて下らしめ給へりければ、御覧ずるに、い
とどその折思し出でて、作らしめ給ひける、
去年今夜侍清涼
秋思詩篇独断賜
恩賜御衣今在此
捧持毎日拝余香
この詩、いとかしこく人々感じ申されき。
現代語訳
右大臣は学識にとても富み立派でいらっしゃいますし、ご性格も、格別にすばらしくていらっしゃいます。
一方、左大臣はお年も若く、学識も格段とひけをとっていらっしゃるので、右大臣への帝
のご信頼は格別なものでございましたが、そのことを左大臣は心安らかではなくお思いに
なるうちに、そうなるはずの運命でいらっしゃったのでしょうか。
右大臣殿にとって好ましくないことが生じ、昌泰四年一月二十五日に、右大臣を大宰権帥に任命し申し上げ、太宰府へと左遷なされたのです。
この大臣には、子どもが多くいらっしゃいましたが、姫君たちは婿を取り、ご子息たちは
皆、それぞれ身分に応じて位などがおありでしたのを、その人たちも皆あちらこちらに左
遷されになって悲しいのに、まだ幼くていらっしゃった男君や女君たちが、父である道真
を慕って泣いていらっしゃったので、
「幼い者は連れていっても差し支えないだろう。」
と、朝廷もお許しになったのです。
帝のご処置が、非常に厳しくていらっしゃったので、このご子息たちを、同じ場所におやりにならなかったのでした。
道真はあれこれととても悲しくお思いになって、お庭先の梅の花をご覧になって、
春になって東の風が吹いたならば、その香りを私のもとまで送っておくれ、梅の花よ。主
人がいないからといって、春を忘れてくれるなよ。
また、宇多天皇に申し上げなさることには、
太宰府へと流れていく私は、水の藻屑のような身になってしまいました。
我が君よ、どうかせき止めるしがらみとなって、私をとどめてください。
また、あの筑紫で、九月九日の重陽の節句に、菊の花をご覧になったついでに、まだこの
大臣が京にいらっしゃった時、去年の九月のちょうど今夜、宮中で菊の宴があった折、こ
の大臣がお作りになった詩を、帝(=醍醐天皇)が甚だしく感動なされて、お召物をお授
けくだされた、それを筑紫にお持ちになって下られましたので、ご覧になると、いよいよ
その折を思い出されて、お作りになられた歌は、
去年の今夜、清涼殿の菊の宴に伺候し、
「秋思」という御題で詩一遍を作ったが、自分は感ずるところがあって独りひそかに断腸
の思いを述べたのでありました。
その時、天皇はこの詩をおほめくださって御衣を賜ったが、その御衣は今もなおここにあ
るのです。
毎日捧げて持っては、御衣にたきしめられた香の残り香を拝し、思い出しています。
この詩を、人々はたいそう深く感嘆申しあげた。
左遷
『大鏡』の中でも涙を誘う段がこれですね。
藤原道長を中心とした話が続く『大鏡』の中で菅原道真について語ったこの章段は味わい深いものがあります。
道真(845~903)は平安時代の学者でもあり政治家でした。
宇多天皇に大変信頼されていたのです。
天皇が譲位の際にも右大臣として左大臣藤原時平とともに醍醐天皇を補佐することになりました。
しかし時平の讒言により大宰府に左遷され、その地で世を去ったのです。
政治というものの冷たい一面でしょうか。
その頃の大宰府は地の果てだったに違いありません。
権勢を誇っていた都での生活からの変化は信じられないほどのものだったと想像されます。
今日、菅原道真は天神様とも呼ばれ、あちこちに神社があります。
境内に梅がたくさんあるのをご覧になったことがあるでしょうか。
「東風吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」という歌は多くの人によく知られています。
天神さまと梅の木は切っても切れないのです。
ちなみに「春な忘れそ」というのは古文の文法を習った人は覚えているはずです。
「な」と「そ」で動詞を挟むと禁止を表します。
「~するな」ということになるのです。
「忘れないでください」と訳すのが自然でしょうね。
学者の政治家というのは、歴史をみても権謀術数に耐えられない弱い面を持っています。
それがこの話には如実にあらわれています。
最後にでてくる漢詩もみごとなものです。
恩賜の御衣という表現をご存知ですか。
「おんしのぎょい」と読みます。
帝から頂戴した衣という意味です。
そこに焚きしめられた香の香りが、昔のよかった日々を懐かしく思い出させるというのです。
これは漢詩の約束事を守った詩です。
高校で習いませんでしたか。
七言絶句といいます。
ではなぜ道真は神になったのでしょうか。
それは死後に怨霊となったと言われる事件が幾つも起こったからです。
930年、朝議中の清涼殿に雷が落ちました。
大納言藤原清貫をはじめ朝廷の要人に多くの死傷者が出たのです。
それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御してしまわれたのです。
皆が畏れた理由は、基本的に無実の罪の人間を死に追いやったことへの後ろめたさがあったと思われます。
道真はやがて神として祀られるようになっていきました。
一条天皇の時代には道真の神格化が更に進み、993年には贈正一位左大臣になります。
その後太政大臣の名が贈られたのです。
人々は怨霊を鎮めるために菅原道真を神にしたというのが本当のところでしょう。
怖かったのですね。
後には多くの怨霊伝説が上田秋成により、『雨月物語』として結晶しています。
是非、興味のある人はご一読ください。
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。