生き残る
新年になっていろいろな雑誌を眺めているうちに、生き残ることの難しさをあらためて感じました。
あちこちに似たような言葉がたくさん出ていたのです。
「今後生き残る企業100」などというタイトルを見るとドキッとします。
毎年学生の就職したい人気企業が発表されますね。
時代の流れを敏感に反映した記事です。
まさにあれこそが時代の鏡かもしれません。
少し前まで飛ぶ鳥を落とす勢いだった会社も、あっという間に不人気企業になっていくのです。
コロナウィルスの蔓延で本当に気の毒な思いをしている人達もたくさんいます。
今までは人気のあった航空各社も昨年はさんざんでした。
採用の予定さえたてられないところがあるくらいです。
キャビンアテンダントも、ここ数年間は採用がないかもしれません。
こんなことが起こるのかというのが実感です。
あたりまえのことですが、会社が失われれば生活の基盤がなくなってしまいます。
それならば少しぐらい給料が下がっても仕事を分け合って生き抜いていこうという思想もあります。
ワークシェアリングという考え方です。
春闘という今となってはもう懐かしい響きを持つ賃金闘争の中でも、このテーマが出現して久しいです。
時代は確かに変わりつつあります。
誰もがまんべんなく幸福になるというイメージはもう遠い幻想なのかもしれません。
作家村上龍は共通の幸福という概念はなくなったと書いていました。
個人がどのように自分の幸福観をつくりあげ、そこで喜びを得るかが真の課題だというのです。
高度経済成長の時代に夢見た、みんなの幸せという考えは幻想でしかなかったのでしょうか。
それでもまだ会社にしがみつける人はいい方なのかもしれません。
生き残れる会社に所属していない人はどうすればいいのでしょう。
カメになってじっと
非正規労働という言葉を聞くようになってかなりの年月が経ちました。
不安定な働き方です。
いつ雇い止めになっても文句が言えません。
守ってくれる組織もないのです。
個人が本当にバラバラの単位で紐づけられているだけなのです。
雇用している側にも当然論理があります。
かつては自由でいいなどと言っていた人たちも、次第に年齢を重ね、いつまでもフリーターではいられなくなりつつあるのです。
やはりカメになってじっと耐えていくべきなのでしょうか。
正月、箱根駅伝を見て、そんなことばかりを考えていました。
屈指の逸材と言われる選手も、実際に走ってみなければ、その日の調子はわからないものです。
どんな人でも調子が悪ければリタイアせざるを得ないのが長距離走のつらいところです。
毎年フラフラになってゴールに倒れ込む選手が何人もいます。
母校のタスキは重いのでしょうね。
以前は必ず優勝にからんでいた大学も最近はシード落ちが続いています。
少し前なら必ず参加していた大学も消えました。
それと同時に破竹の勢いで台頭してきた大学もあります。
栄枯盛衰が世の常とはいうものの、実に象徴的です。
ここでもカメになる訓練が必要になりつつあるのかもしれません。
とにかくじっと練習に耐えて、長い距離を休まず走る。
高地での苦しい練習を重ねる。
派手なウサギでなくてもいいのです。
カメになりきることです。
人生の意味
自分の人生を振り返って見た時、生き残るということは何を意味するのでしょう。
経済生活を最後までうまく行うということでしょうか。
愛情にあふれた人生を豊かに送るという意味なのでしょうか。
いずれにしても身体が健康で機能しているということが基本でしょうね。
しかし日々の暮らしを支えるものはやはり心でしょう。
意志力といってもいいかもしれません。
どんな人間にとっても自分がいる場所の確認こそが一番大切なのです。
誰かのために生きているという実感がなくなった時、人は精神を荒廃させていきます。
藤沢周平の『三屋清左衛門残日録』は、隠居して仕事が全くなくなった清左衛門が主人公です。
そこへわざと藩の難題を持ちかけては、生き甲斐を無理にでも掘り起こそうとする友人が登場します。
どんな人間にも火種は残っています。
そこへどう火をつけるか、後は一人一人の生き方の問題でしょう。
しかし自分で点火できなくなった時、少しでもそばにいて助けてくれるほんのわずかの友達、あるいはネットワークを持っている人は幸せです。
同じ藤沢周平の作品に『密謀』という小説もあります。
ここには上杉の家をどう次の代に残すかということに腐心した家老の姿が出てきます。
豊臣が徳川の世へ移っていく中で謙信の家を残すために、並々でない苦労をした男の話です。
ポイントはダウンサイジングです。
小さくなっても生き残る手段をもっと考えなければなりません。
しかし人との関係は今よりもなお密にしなければなりません。
それしか生きていく道はないと思います。
人肌のぬくもりを感じながら生きていく。
それ以外に今のような複雑に入り組んだ時を生き抜く方法はないのではないでしょうか。
スマホも友達
病院が遠くて知り合いのお見舞いにもいけないという話をききます。
それを解決したのがZoomとラインだったという記事が今日の新聞にも出ていました。
コロナで親しい人に会えない日々をどうやって埋めるのか。
その1つのヒントがここにあるのかもしれないのです。
もしかしたらその映像はバーチャルなものでしかないのかもしれません。
それでもいいじゃないですか。
自分は1人ではないということを確認するための手段として、今やスマホとパソコンは存在しているのです。
ごくあたりまえの風景としてスマホを手に持ち、肉親と話をし、病床の様子を映す。
それも新しい時代の生き方だと思います。
今年はどのような年になるのでしょう。
全く予測がつきません。
ただ今日という日を明日にしていくだけの日常を健気に続けなければなりませんね。
先日ふらりと入ったラーメン屋さんにこんなことが書いてありました。
それは毎日を一生懸命生きていくことの中にしか、未来はないというものです。
あたりまえだと言ってしまえば、それだけのことです。
しかし人間は本当にこの毎日の生活を苦しみながら、しかし半面笑いでつらさを吹き飛ばして、生き抜いていくものなんでしょうね。
誰の人生もつねに華やぎに満ちているわけではありません。
同じようにみな葛藤があるのです。
しかしその中で、どれだけ笑顔を保ち続けることができるのかが、本当の勝負なのです。
言うは易く行うは難しです。
それでも前に進む以外に方法はありません。
アフターコロナの後、親しい人たちと大いに笑いあいたいものです。
最後までお読みいただきありがとうございました。