【西行と文覚・光と影】達人は他者の真贋を見抜く目を持つ【井蛙抄】

頭を打ち割る

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は西行と文覚の話をします。

西行については以前、落語のネタで記事を書きました。

「鼓ケ滝」という若い頃の噺です。

もっともほとんどが創作なので、ここに登場する歌はギャグみたいなもんです。

全て後世の作り話です。

西行の真骨頂は『山家集』を読まなければわかりません。

俗名は佐藤義清(のりきよ)、北面の武士です。

西行の功績は計り知れません。

後の歌人、俳人に大きな影響を与えました。

彼の歩いた足跡をたどろうとしたのが俳聖と言われた松尾芭蕉です。

一方の文覚は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士で真言宗の僧です。

俗名を遠藤盛遠と言いました。

西行と同じく北面の武士として鳥羽天皇の皇女に仕えました。

人妻、袈裟御前に横恋慕し彼女を誤って殺してしまったのです。

それが出家の理由だと言われています。

京都神護寺の再興を訴えたものの伊豆に配流されました。

そこで源頼朝の知遇をえたことで、人生が変わります。

後に神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺などを修復していきます。

ちなみに有名な彫刻家荻原碌山の代表作「文覚」をご存知でしょうか。

力強いその風貌を見ていると、なるほど時代の生んだ男の風貌をたたえています。

1度、信州安曇野の碌山美術館を訪ねてみてください。

それはみごとなものです。

文覚は頼朝が生きているうちは大活躍をしたものの、その後佐渡へ流されたり対馬への流罪にあったりしています。

同じ武士でありながら歌に生きた西行とはなにもかもが対照的です。

西行の方が20歳ほど年上です。

政治に近づくことで力を得ようとした文覚。

歌の道に励むことだけに専念した西行。

その2人が出会うシーンが歌人頓阿(とんあ)の書いた『井蛙抄』(せいあしょう)の中に出てきます。

文覚は嫉妬心からくる憎悪で、殺意さえ抱いていたと書かれています。

原文

文覚上人は、西行を憎まれけり。

その故は、遁世の身とならば、一すぢに仏道修行のほか他事あるべからず、数寄を立て

てここかしこにうそぶきありく条、憎き法師なり、いづくにて見合いたらば頭を打ちわ

るべきよし、常のあらましにてありけり。

弟子ども「西行は天下の名人なり。もしさることあらば珍事たるべし」と嘆きけるに、

或時、高雄法華会に西行参りて、花の陰など眺めありきける、弟子どもこれかまへて上

人に知らせじと思ひて、法華会もはてて坊へ帰りたりけるに、庭に「物申し候はむ」と

いふ人あり。

上人「たそ」と問はれたりければ、「西行と申す者にて候ふ。法華会結縁のために参り

て候ふ。今は日暮れ候ふ。一夜この御庵室に候はんとて参りて候ふ
」と言ひければ、上

人内にて手ぐすねを引いて、思ひつる事叶ひたる体にて、明り障子を開けて待ち出でけ
り。

tony241969 / Pixabay

しばしまもりて、「これへ入らせ給え」とて入れて対面して、年頃承り及び候ひて見参

に入りたく候ひつるに、御尋ね悦び入り候ふよしなど、ねんごろに物語りして、非時な

ど饗応して、つとめてまた斎などすすめて帰されけり。

弟子たち手を握りつるに、無為に帰しぬる事喜び思ひて、「上人はさしも西行に見合ひ

たらば、頭打ち割らむなど、御あらまし候ひしに、ことに心閑かに御物語候ひつるこ

と、日ごろの仰せにはたがひて候ふ」と申しければ、「いふかいなの法師どもや。あれ

は文覚に打たれんずる者のつらやうか。文覚をこそ打たんずる者なれ
」と申されける。

口語訳

文覚上人は、西行を憎んでおられました。

出家遁世の身であれば、一心に仏道修行をするよりほかの事をするべきではないはずなのです。

それなのに西行は風雅を好んで、あちこちで歌などを詠んでまわるというのは、憎い法師そのものに違いないというのです。

どこであろうと出会ったならば、頭を殴ってやろうと、普段からの望みとしていました。

弟子たちは「西行は天下の大歌人です。もしそのようなことがあれば、大変な事になってしまいます」と嘆いていたのです。

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ある時、高雄の法華会に西行が参り、花の陰などを眺めてまわったことがありました。

弟子たちはこのことを決して文覚上人に知らせまいと思って、法華会も終わって僧たちの居室へ帰ったところ、庭に「ごめんくださいませ」という人の声がしました。

上人が「誰だ」とお訊きになると、「西行と申す者でございます。法華会に結縁のため

に参りました。もう日が暮れてしまいました。一晩この御庵室に泊まらせていただこう

と思って参ったのです」と言ったのでございます。

上人は内心で手ぐすねを引いて、願っていた事がかなったというふうに、明かり障子を開けて待ちうけて出ていきました。

文覚上人は西行の顔をしばし見つめて「こちらにお入りください」と入れて対面しました。

「この数年来、お噂はうけたまわっておりました。一度お目にかかりたいと思っておりましたが、お尋ねくださって喜んでおります」と丁寧にお話しました。

さらに食事などをふるまってお泊めし、翌朝さらに朝食をすすめて西行をお帰しになったのです。

弟子たちは何か不吉なことが起こるのではないかと手に汗を握っていましたが、なにごともなく無事にお帰しになった事を喜びました。

「上人様はあれほど西行に出会ったならば、頭を殴ってってやるなどと、お望みでい

らっしゃったのに、格別、おだやかにお話しなさいましたことは、日ごろおっしゃって

いたこととは違っておりましたね」と申しあげたところ…。

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上人は「わけのわからない法師どもだな。あれが私になぐられるような者の顔つきかとおっしゃったということです。

達人は達人を知る

文覚は障子を開けて、しばらくの間訪問者西行を見守ったのです。

そして静かに対面します。

上人は復興なった神護寺の住職です。

20歳ほど年長の西行に対し礼を尽くしました。

その様子をみていた弟子たちの様子が愉快ですね。

今にも殴りかかるのかと思っていると、そんなこともありません。

pixel2013 / Pixabay

西行はその晩一泊し、翌日食事をいただいて、静かに寺を去るのです。

文覚は西行を見かけたら頭を打ち割ってやるというのが口癖でした。

だかこそ、弟子たちも緊張していたのです。

二人の穏やかな様子を見て、拍子抜けがしたというのが本当のところでしよう。

弟子の一人が半信半疑で上人に訊ねます。

答えは明快でした。

お前たちには何も見えないのか。

西行こそが隙あらば私を打ちのめすような面構えだったではないか、と。

一瞬の切っ先が生死を分けるということがあります。

どちらにより力があるのかということは、修羅場を潜り抜けてきたものにしか見えないものなのかもしれません。

Larisa-K / Pixabay

歌を詠み続けてきた西行は、仏道に精進したという文覚の甘さを見抜いたということなのでしょう。

まさに達人には人の本質が見えるということです。

真贋を見極める目そのものです。

この話を書いた南北朝時代の歌人、頓阿は何が言いたかったのか。

書名の『井蛙抄』はまさに井戸の中の蛙という古来からの言い伝えです。

見える人には見える。

見えない人には見えないというごく当たり前の真実なのでしょう。

奥深い内容のいい文章だと思います。

じっくりと味わってみてください。

いい話です。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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