「無名草子・一条天皇の悲しみ」葬送の夜に詠んだ野辺の歌には哀惜に満ちた心情が

本

葬送の夜

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は中宮定子が亡くなった後の一条天皇の様子を読んでみます。

作品名は『無名草子』(むみょうぞうし)です。

この書物は鎌倉時代初期(1196年頃〜1202年頃)に成立したとされる、日本現存最古の散文による文学評論書です。

藤原俊成の女(むすめ)の作という説もあります。

しかし今も作者ははっきりとわかっていません。

女性の立場からみた平安時代の物語、歌集、作家などの批評が中心です。

似た名称の作品に『無名抄』というのがあります。

こちらは鴨長明の書いた歌論書です。

間違えやすいですね。

今回とりあげる内容は、中宮定子の気品や情愛、夫である一条天皇の悲しみが描かれている段です。

中宮定子は24歳で亡くなりました。

若い彰子が後に入内したとはいうものの、一条天皇の定子に対する愛情は深いものでした。

一条天皇の方が4歳年下です。

天皇が11歳の時、定子が入内しました。

定子が亡くなったのは1001年です。

死因は第3子を出産した時の産褥だと言われています。

一条天皇は定子の死後、さらに約10年半生き、31歳で亡くなりました。

中宮彰子が23歳の時のことです。

彼女はその後、86歳まで藤原摂関家の時代をほぼ生き抜きました。

当時としては、大変に長命な人でしたね。

本文

さて御わざの夜、雪の降りければ

野べまで心ひとつはかよへどもわがみゆきとは知らずやあるらむ

とよませたまへりけむもいとこそめでたけれ。

おはしまさぬあとまで、さぱかりの御身に、御目もあはずおぼしめし明かしけむほどなども、かへすがへすもめでたし。

また中の関白殿かくれさせたまひてのち、かいかに心ぼそくておはしましけるに、頭中将それがしまゐりて、簾のそば風に吹き上げたるより見たまひければ、

いたく若き女房の清げなる七八人ばかり、いろいろの単襲も唐衣などもあざやかにてさぶらひけるも、いと思はずに、今はなにばかりをかしきこともあらじと思ひあなづりけるも、あさましくおぼえけるに、庭草は青く茂りわたりてはべりければ、

『などかくは。これをこそ払はせておはしまさめときこえてたまひても、宰相の君となむきこえける人『露おかせて御覧ぜむとて』といらへけむこそは、なほふりがたくいみじきおぼえさせたまへ。

上東門院の御ことはよしあしなどきこゆべきにもあらず。

何事もめでたきためしにはまづひかれさせたまふときなれば、とかく申すにおよばず。

何事も御さいはいきはめさらたまふあまりに、御命さへこちたくて、あまたの帝におくれさせたまふこそいとくちをしくはべれ。

そのたびにいとあはれなる御歌どもよませたまひたるは心やさしくこそはべれ。

一条院かくれさせたまひて、

逢ふことを今はなきねの夢ならでいつかは君をまたは見るべき

などよませたまへるもいとめでたくこそはべれ。  

現代語訳

さて、御葬送が行われた夜、雪が降りましたので、

野べまで心ひとつはかよへどもわがみゆきとは知らずやあるらむ

雪の降る野辺にまで私の心はついていっているけれども、相手はそれを私の訪れ(行幸)とは気づかずにおられるのだろうか。

またこんなに深雪が降っているとも気づかないでいるのだろうか。

とお詠みになったというのも、まことにすばらしいことでした。

(注 天皇が葬送に行幸するということは禁じられていました。せめて心だけでも葬送に参加したいという気持ちから詠まれた歌なのです)

定子様がお亡くなりになられた後までも、天皇はその地位におられながら、おやすみにもならず一夜を明かされたということをお聞きするにつけて、中宮様はほんとうにすばらしい方だったと思われてなりません。

また、中の関白様(定子の父、道隆)がお亡くなりになった後、どれほど心細いお気持ちでいらっしゃったことでしょう。

そのうえ、伊周様が流罪になったりしてご勢力が衰えてしまわれた後年、中宮様がひっそりと心細くいらっしゃった時に、頭中将様が参上して、簾の端が風に吹き上げられたところから中をご覧になったところ、たいそう若く、容姿の美しい女房が七、八人ほど、色とりどりの単衣や襲、唐衣などを鮮やかに着てお仕えしていたそうです。

その様子は、頭中将様にとってまったく予想外のことでした。

今となっては、さほど風情のあることなど家が傾いてできもしないだろうと軽く考えていたのに、こんなに立派に過ごしておられる様子を見て、驚きあきれるほどすばらしいと思ったのです。

その一方で、庭の草が青々と一面に茂っていたので、

「どうしてこのように草を茂らせたままにしていらっしゃるのか。せめて草をお払いになればよいのに」

と申し上げたところ、宰相の君と申し上げた女房が、

「中宮様が草の茂るにまかせて露を置かせて眺めていたいというお考えなのです」

と答えたということこそ、やはり今でも色あせることなく、すばらしいこととして感じられるのです。

上東門院様については、良いとか悪いとか、あれこれ申し上げるまでもないでしょう。

何事につけても、すばらしいことの模範として、まずお名前が挙げられる時代であるから、あれこれ申し上げる必要もありません。

何事につけても、この上ない幸運に恵まれていらっしゃった結果、その一方で、ご長命であったために、何人もの天皇に先立たれたことは、まことに残念なことでした。

そのたびに、たいそうしみじみと心を打つ和歌をお詠みになったことは、思いやり深く、情愛に満ちたことでした。

一条院がお亡くなりなさって、

逢ふことを今はなきねの夢ならでいつかは君をまたは見るべき

とお詠みになったのも、まことにすばらしいことでした。

亡くなった一条天皇に、もう一度お会いすることはできないのだろうか、夢の中でお会いする以外に、いつ再びお姿を見ることができるのだろうか、という深い悲しみを詠んだもの。

庭の草と露

この文章を読んで一番に感じるのが、庭の草と露の話です。

庭をきれいになぜ整えないのかと訊く頭中将の発言に対し、草に置く露の風情を大切にしたいと告げる平安貴族の美意識が示されています。

自然をそのままの形で捉えたいとする定子の人柄がよく出ていますね。

一条天皇の愛情が本当に深かったことがよくわかります。

天皇は神に仕える身ですので、葬送の儀式のような穢れには触れてはならないという宿命を持っています。

それが若い天皇にとってはさぞ心残りだったことでしょう。

一緒に野辺送りをして、悲しみを少しでも癒したいと思ったに違いありません。

深い雪と行幸を同じ音で「みゆき」と表現した気持ちが痛いほど伝わってきます。

また上東門院(中宮彰子)の生きざまについても、あまりに長生きしすぎた結果、多くの天皇の死を見送らなければならなかったと記しています。

傍からみれば幸運に恵まれていたかにみえる彼女の一生も、また別の人生模様に彩られています。

ここに登場する人物たちは、あまりにも時代に翻弄されすぎたのではないでしょうか。

読んでいて、そんな気がしてなりませんでした。

他の書物と比べて、藤原道長の暗躍したこの時代の深部を読み取ってください。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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