「松尾芭蕉・更科紀行」姨捨山の月を見にでかけるという旅の持つ意味「無常」

本

更科紀行

今回は俳人松尾芭蕉(1644~1694)と、その生き方について少し考えてみましょう。

彼は生涯に5回、旅をしました。

そのたびに紀行文を著しています。

1684〜1685年『野ざらし紀行』東海道、伊勢、伊賀、大和、近江など。
1687年 『鹿島紀行』鹿島神宮への月見の旅。
1687〜1688年 『笈の小文』伊賀、伊勢、吉野、須磨、明石など。
1688年 『更科紀行』信濃の更科、善光寺など。
1689年 『おくのほそ道』東北、北陸をめぐる旅。

こうしてみると、ほぼ毎年、旅に出ていますね。

芭蕉にとって旅は人生の無常を意味し、俳諧の境地を深めていく作品でもありました。

名所旧跡を訪ねただけではありません。

古人の文学や和歌の世界を実際の風景の中に見いだしたかったのです。

人々に親しまれてきた作品や歌枕の風景を、自分の目で身体の奥に染み込ませるための作業でもありました。

それこそが、自身の感性を磨く営みだったのです。

芭蕉は追体験を重視しました。

人生の無常を感じる場所を訪ねることの重要性をよく知っていました。

自然と人間の対比を肌で知ると、そこに自ずから感情が生まれます。

そういう意味でいえば、姨捨山も古典文学においては月を眺めるための代表的な場所として知られていた場所です。

人の持つ「死」の宿命を痛いほど感じざるを得ないトポスでした。

芭蕉の旅には、人生の意味見つめる作業がつねについてまわります。

貞享5年(1688年)秋、門人の越智越人(えつじん)と共に、信濃の更科の里にある姨捨山へ向かう時の様子が綴られています。

名月を眺める旅へ向かおうとする、高揚感が伝わってきますね。

翌年の名作『奥の細道』へ向かう前段とも位置づけられた作品です。

『更級紀行(さらしなきこう)』が持つ意味は、単に旅先の風景や出来事を記録した紀行文というだけではありません。

姨捨山には老いた親を山に捨てるという伝説と深い関係があります。

人間の老いを肌で感じるためのものでした。

言葉の深層に向かって進めために、訪ねた場所でした。

本文

さらしなの里、をばすて山の月見ん事、しきりにすすむる秋風の心に吹きさわぎて、我とともに風雲の情をくるはすもの又ひとり。

越人(えつじん)と云ふ。

木曽路は山深く、道さがしく、旅寝の力も心もとなしと、荷兮子(かけいし)が奴僕をして送らす。

おのおの心ざし尽すといへども、駅旅の事心得ぬさまにて、共におぼつかなく、ものごとのしどろにあとさきなるも、なかなかにをかしき事のみ多し。

何々といふ所にて、六十斗の道心の僧、おもしろげもをかしげもあらず、ただむつむつとしたるが、腰たわむまで物おひ、息はせはしく、足はきざむやうに歩み来れるを、

ともなひける人のあはれがりて、おのおの肩にかけたるもの共、かの僧のおひねものとひとつにからみて、馬に付けて、我をその上にのす。

高山奇峰、頭の上におほひ重なりて、左は大河ながれ、岸下の千尋のおもひをなし、尺地もたひらかならざれば、鞍のうへ静かならず。

只あやふき煩ひのみやむ時なし。

棧はし・寐覚など過ぎて、猿がばば・たち峠などは四十八曲リとかや。

九折(つゞらをり)重なりて、雲路にたどる心地せらる。

歩行より行くものさへ、眼くるめき、たましひしぼみて、足さだまらざりけるに、かのつれたる奴僕、いともおそるるけしき見えず、

馬のうへにて只ねぶりにねぶりて、落ちぬべき事あまたたびなりけるを、あとより見あげて、あやふきかぎりなし。

仏の御心に衆生のうき世を見給ふもかかる事にやと、無常迅速のいそがはしさも、我が身にかへり見られて、あはの鳴戸は波風もなかりけり。

注

さらしなの里 信濃国(現在の長野県)の更科地方
道心の僧 仏道を求め、修行する僧
尺地 わずかな土地
越智越人(えつじん) (1656-1739) 越後生まれの名古屋の染物
山本荷兮(かけい) (1648-1716) 名古屋の医者

現代語訳

更科の里にある姨捨山の月を見ようという思いが、しきりに私を誘う秋風のように心の中に吹き荒れました。

私とともに風や雲を愛でる風流な心をかき立てる人が、もう一人いたのです。

越人という人です。

木曽路は山深く、道は険しく、旅先で一夜を過ごすことも心配だというので、荷兮(かけい)が、自分の召使いを道案内として私たちに付き添わせてくれました。

それぞれが私たちへの親切な気持ちを尽くしてくれたのですが、彼らも道中の事情に詳しくはない様子で、私たちも一緒になって心もとなく感じたものです。

何事につけても手際が悪く、物事の順序も前後してしまうのですが、かえってそんなことが、面白く感じられることばかりでした。

ある所で、六十歳くらいの僧に出会いました。

特に趣深いところも、滑稽なところもなく、ただむっつりとした様子で、腰が曲がるほど荷物を背負い、息を切らし、足を小刻みに動かすようにして歩いていました。

一緒に旅をしていた人がその僧を気の毒に思い、それぞれが肩に掛けていた荷物を、僧の背負っていた荷物と一緒にまとめて馬に載せ、私をその馬の上に乗せてくれました。

高い山や珍しい峰々が頭上に覆いかぶさるようにそびえ立ち、左側には大河が流れています。

岸の下は、千尋もの深さがあるかのように思われました。

足元には平らな土地が少しもないので、馬の鞍の上でも落ち着いていられません。

ただ危険なことばかりで、心配が絶えることがありませんでした。

桟(かけはし)や寝覚(ねざめ)などの場所を通り過ぎ、猿ヶ馬場や立峠などは、四十八回も曲がりくねっているということでした。

つづら折りの道が幾重にも重なり、雲の中へ続く道をたどっているような気持ちがします。

歩いて進む者でさえ、目がくらみ、魂が縮み上がり、足元も定まらなくなってしまうほどでした。

それなのに、一緒に来た供人は少しも恐れる様子を見せずに、馬の上でただひたすら眠り続けていたのです。

今にも落ちそうになることが何度もあったので、後ろから見上げていると、危険この上ないことでした。

仏が慈悲深い心で、この苦しみの多い世の中に生きる人々をご覧になるのも、このような思いでいらっしゃるのでしょうか。

人生があっという間に過ぎ去ってしまうという、無常の世の急がしさも、こうした旅の経験を通して、改めて自分自身のこととして振り返られるのでした。

鳴門の渦潮でさえ、波も風もないかのように思われるほどだったのです。

旅への思い

冒頭には姨捨山の月を見たいという思いがいかに強かったのかということが示されています。

ここで重要なのは、旅への思いが、単なる観光への期待ではないということです。

自然との交感がなによりも強い動機になっていることがよくわかります。

この表現は『おくの細道』との関係と比例していますね。

足の三里に灸を据えるより、松島の月の様子が心に浮かんで仕方がないと深川の庵にいた時の気持ちが作中に出てきます。

まさにそれと同じ感覚だったのでしょう。

どうしても姥捨山の月が見たいと思い込んだら、もう他のことはどうなってもよかったに違いないのです。

自然を眺めるだけではなく、そこに古人の心や人間の生き方を重ね合わせる芭蕉の生き方がよく表れています。

『更級紀行』が現代の私たちに伝えていることはなんでしょうか。

一言でいえば、人の喜びと悲しみということに尽きますね。

昔の人が眺めた月を見るという行為が、時間軸を超えて、人生のはかなさに通じています。

写真や動画で見たのではわからない、自分の目への深い信頼がそこにはあります。

今日になっても、芭蕉の旅が示す人生の諸相はけっして色あせることはありません。

むしろますます新鮮さを増しているといってもいいのではないでしょうか。

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