型の模倣
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
あなたは型から入り型を出るという言葉を聞いたことがありますか。
「型」とは過去の達人たちの知恵が集約された理にかなった方法のひとつです。
全くの新人に新しい技術を教えるとき、一番簡単なのは型を教えることです。
簡単にいえば、模倣ですね。
指導者と同じ「間」で、話し方から動作にいたるまでをクローン化するのです。
これが才能の有無にかかわらず一定のレベルまで到達するための基礎だと信じられてきました。
相撲の四股やスポーツのフォームを思いだしてみれば、それはすぐにわかります。
繰り返し同じ練習をすることで言葉では説明しにくい感覚を身体で理解するのです。
歌舞伎や舞踊などにもまったく同じことが言えますね。
師匠の型を見よう見まねで完全に模倣していくのです。
能も落語もまったく同じです。
師匠と息の継ぎ方まで、同じになればしめたものです。

この段階を数年経ることによって、プロになるための土台ができあがります。
しかし、いくらすばらしいといっても、先人と全く同じ型のクローンがそこにいても、面白くはありません。
芸能やスポーツなどの場合、ある程度「型」ができあがったところから、次の段階に入ります。
では学校教育の場合はどうでしょうか。
ここではひとつの考え方を参考にしながら、学校教育における型の問題を考え論じてみたいと思います。
「型」は学校教育においても、読み書きそろばんや書道のように、基礎を身につけるうえで大きな役割を果たしてきました。
その一方で、個性重視の考え方が広がりつつある今日、明らかに「型」は変化しつつあります。
課題文
相撲は、身体の芯がしっかりしていなければバランスを崩してすぐに倒されてしまいます。
また、腰を落とし、踏ん張ることができなければ土俵に残ることができません。
身体の芯をとらえ、効果的に踏ん張るために、何度も「四股」を踏みます。
つまり、相撲の本質を深く理解し、その頂点を極めた過去の達人の暗黙知を、全ての力士に伝授する「型」の一つが四股です。
「これが腰を落とすということか」
「これが踏ん張るということか」
言葉では伝わらない極意のようなものが、身体で分かるようになっていきます。
これが「型」のメリットです。
「型」とは、才能やセンスがない人でもある程度のところまでたどり着ける、理にかなったメソッドなのです。
これはスポーツでも同じです。
野球のバッティング、ゴルフのスイングも、「このフォームで振ればある程度まではできるようになる」という基本の「型」があります。
バスケットボールの部活動を描いた、井上雄彦の漫画『SLAM DUNK』でも、そのことを描いた有名なシーンがあります。
全国大会直前の練習で、主役の桜木花道が、監督の安西先生にこう尋ねます。
「何をやったらいいんですか?」
「シュート2万本だ」

彼は1週間で2万本のシュート練習をおこない、自らの身体にその「型」を叩き込みます。
本来、自分のものとして身につけるためには、そのくらいの鍛錬が必要なのです。
何もないところから自分なりの「型」を開発することを考えれば、楽なものです。
実は、これまでの学校教育で重要視されていた知識詰め込み型の「伝統的な学び」には、「型」のような学びのメソッドが多用されていました。
時代によって変わらない普遍的なことに、「型」は有効です。
時代に変化があっても、それがゆっくりであれば、一つの「型」が長く使えます。 1
しかし、時代によってどんどん変化する「型」もあります。
スキーのジャンプ競技では、現在はスキー板をV字に開く選手がほとんどです。
でも、かつては板を揃えて飛ぶ人がほとんどでした。
テニスでも、今はバックハンドを両手で打つのが主流ですが、昔は両手打ちは変則的な技術でした。
このように、「型」が変化し、その変化に柔軟に対応することが求められる場合には、基本の「型」をアレンジしていくことが必要になります。
しかしだからといって現代には「型」は不要だ、無駄だということではありません。
武道やスポーツでも、「学び」でも、大切なのは、自分にとって基準となる「型」を知り、身につけ、必要なときにはその「型」だけにとらわれず、新たなチャレンジをすることなのです。
齋藤孝「人生が面白くなる 学びのわざ」
問題
この文章の後に、次のような問題が課されています。
これまでの自分の経験も交えながら、学校教育の場で「型」を身につけることの意義について、800字以内で述べなさいというものです。
あなたなら、どの立場で書きますか。
筆者の論点を正面から肯定するべきでしょうか。
型など全く不必要だというまとめ方もあるかもしれません。
しかしそれでは文章を続けにくくなってしまうような気もします。
ある程度、肯定を繰り返したあと、「型から抜ける」という方向にまとめていけば無難でしようね。
ポイントは個性重視の時代の中で、「型」を意識した教育は必要なのかという視点をどうまとめきるのかということです。
1つの例です。
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学校教育で「型」を身につけることには大きな意義がある。
「型」は学びの土台であり、自信や応用力につながるからである。
例えば、英語を学び始めたときのこと思い出せば、そのことはすぐに理解できる。

文法や単語を何度も繰り返して覚えた。
特に5文型の習得は大きな意味を持っていたと感じる。
文の形を身につけたことで、自分で英文を作ったり、長文を読んだりできるようになったのである。
もし基本の「型」を学ばなければ、いまだに応用問題にも対応できなかったに違いない。
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これをまったく反対の形から書くと、型ばかりを踏襲していたから、日本人は世界の中で後れをとってしまったという論点も考えられます。
AI時代をどう切り抜ければいいのかという視点から、もう型を出る時代に入っているという視点を強調するのにも大きな意味があります。
型から出る
問題はこれからの時代に教育はどうあるべきかという論理構成です。
どこに立論の中心を置くのかについてじっくりと考えてください。
ちなみに「守破離」という表現がありますね。
型から入って型を出るということです。
現代の社会では変化に対応する柔軟さが必要であるのはいうまでもありません。
基本となる「型」があったからこそ、新しい方法への道のりが見えてくるという考え方もあります。
この内容を学校教育にあわせてみるのはどうでしょうか。
同時に基礎となる「型」を丁寧に教えるとともに、それを応用する力も育てることが大切であるという論点も可能性としてはありえます。
「型」は、長い歴史の中で多くの人が試行錯誤を重ねて作り上げてきたものです。
ある意味、短期間で養成するには効率的で合理的な方法なのです。
しかし、あたりまえのことですが、教育の目的は単に「型」を覚えさせることだけではありません。

ここからあなたの経験や考えを強く打ち出してください。
社会や時代は常に変化しており、決められた方法だけでは対応できない場面も多いです
そのため、基本を身につけた後には、自分で考え、状況に応じて工夫する力が必要になります。
これが「型から出る」ということです。
「個性」や「主体性」が重視とどう関連づけるか。
ここをまとめるのが一番難しいですね。
過去には他者と全く違う行動が「個性的」と呼ばれ、教育現場が荒れたこともありました。
しかしそれとは根本的に違う意味で、確かな基礎を身につけたのちに、その型を応用し、自分らしく発展させる力を育てることが求められているのは間違いありません。
ここからあなたの「経験」が生きてきます。
ぼくはかつてスペインのバルセロナにあるピカソ美術館を訪ねたことがあります。
ピカソといえば、キュビスムの理解不能な絵ばかりかと思うのはごく自然なことです。
しかし現実に展示されている彼の絵は予想と全く違うものでした。
具象画や、精緻なデッサンがたくさん展示されていました。
それは実にみごとなものでした。
基礎の基礎から始めた画家の横顔をみてとったのです。
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。
