「玉勝間・本居宣長」兼好法師の文章に対する批判が痛烈なのに驚く

花は盛りに

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は本居宣長の書いた文章について考えてみます。

タイトルは『玉勝間』です。

不思議な書名ですね。

『玉勝間』(たまかつま)は、本居宣長の随筆集です。

「玉」は美称、「勝間」は古語で籠を意味します。

つまり「美しい玉を入れる籠」のイメージで名づけられました。

その中に、兼好法師の考え方についてクレームをつけている一節があるのです。

大変によく知られた箇所なので、そこだけ読んでみたいと思います。

それはどこなのか。

ズバリ『徒然草』の第137段です。

高校の古文で必ず習う段です。

覚えていますか。。

「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは」という一節がそれです。

「桜は満開の時、月は満月だけを見るものだろうか。いや、そうではあるまい」というのがその主張の要点です。

兼好法師が言いたかったことの真意が理解できるでしょうか。

完成された美しさだけでなく、散りゆく桜や曇り空の月、不完全なものの中にこそ本当のしみじみとした趣きがあると彼は説いているのです。

桜と言えば、満開の時、月見といえば、貼れた満月の時だけが素晴らしいというわけではありません。

人は心にかなわない時に、さまざまなことを深く思うものです。

それだけに悲しむ歌の中にすぐれた歌が多いというのです。

そういわれてみれば、確かにその通りかもしれません。

玉勝間

『玉勝間』は14巻からなる随筆です。

1793年から書き始め、1801年まで続きました。

内容は学問論、人生論、文学論など多岐にわたります。

著者、本居宣長は「明かく清く正しく直く」という古道精神の復興を強調しました。

この文章では心の自然な動きをよしとして兼好の説いた内容を偽の風流として非難しているのです。

その部分が、宣長にとっては納得できなかったに違いありません。

それはなぜか。

宣長は、当時の人びとの心が曇っている根拠を儒教や仏教といった「からごころ」に惑わされていることにあると考えました。

漢文脈の『日本書紀』を排し、和文脈の『古事記』重んじることが大切だと主張したのです。

彼は国学者、賀茂真淵に弟子入りし、35年間を費やして『古事記伝』を完成させました。
その研究対象は多方面に及んでいます。

大きく分けると、語学、文学、古道の3分野に分けられます。

国語学の根本はどこまでいっても、和文を理解することが肝要だと考えたのでしょう。

兼好法師の考え方にはどこか、明るさがないと感じたのです。

宣長は万葉の人々のおおらかな感情の吐露に強く惹かれました。

満開の桜の下で、生を思い切り寿ぐ、万葉人の精神こそが、日本人の心の在りかだと信じたのです。

だからこそ、美を率直に受け入れようとしない兼好法師の論理を良しとしなかったに違いありません。

本文

兼好法師が徒然草に、「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。」とか言へるは、いかにぞや。

いにしへの歌どもに、花は盛りなる、月はくまなきを見たるよりも、花のもとには風をかこち、月の夜は雲をいとひ、あるは待ち惜しむ心づくしをよめるぞ多くて、

心深きもことにさる歌に多かるは、みな花は盛りをのどかに見まほしく、月はくまなからんことを思ふ心のせちなるからこそ、さもえあらぬを嘆きたるなれ。

いづこの歌にかは、花に風を待ち、月に雲を願ひたるはあらん。

さるを、かの法師が言へるごとくなるは、人の心に逆さかひたる、のちの世のさかしら心の、つくりみやびにして、まことのみやび心にはあらず。

かの法師が言へることども、このたぐひ多し。みな同じことなり。

すべて、なべての人の願ふ心にたがへるを、みやびとするは、つくりごとぞ多かりける。

恋に、あへるを喜ぶ歌は心深からで、あはぬを嘆く歌のみ多くして、心深きも、あひ見んことを願ふからなり。

人の心は、うれしきことは、さしも深くはおぼえぬものにて、ただ心にかなはぬことぞ、深く身にしみてはおぼゆるわざなれば、

すべて、うれしきをよめる歌には、心深きは少なくて、心にかなはぬすぢを憂へたるに、あはれなるは多きぞかし。

さりとて、わびしく悲しきをみやびたりとて願はんは、人のまことの情こころならめや。

現代語訳

兼好法師の『徒然草』の中に、「春の桜の花は盛りなのを、秋の月はかげりなく輝いているものだけを見るものだろうか。」などと言っているのは、どういうことなのでしょうか。

昔の和歌などを調べてみると、花は盛りであるのを、月はかげりなく輝いているのを見たという歌よりも、花の下では花を散らす風を恨み嘆き、月の夜は雲を嫌う歌が多いようです。

あるいは花が咲き、月が見えるのを待ち花が散り、月が隠れるのを惜しむ物思いを詠んだ歌も数あります。

趣深いのは何かといえば、そうした趣向の歌だと断じているのです。

しかし本当にそうなのでしょうか。

私はそうは思いません。

多くの人は花の盛りをのどかな心で見たいのです。

月はかげりがなく輝いていることを思う心が大切だと考えてきたのではないでしょうか。

それなのに花に花を散らす風が吹くのを待ち、月に月を隠す雲を願っている歌があるとしています。

この考え方が本当なのか私には疑問でなりません。

兼好法師が言っていることは、人の心に反した、後世の利口ぶった心の、作り構えた偽物の風流で、本当の風流な心ではないのです。

法師が言っていることなどは、この類のばかりなのです。

皆同じことばかりです。

人々が願う心に反していることを、風流として考えるのは、偽った作り事が多いのです。

恋の歌に、恋が成就することを喜ぶ歌は趣きがあまりなくて、恋が成就しないのを嘆く歌ばかり多いのはなぜなのでしょうか。

それは多くの人が恋がうまくいくことを本当は願っているからなのです。

人の心というのは、嬉しいことは、それほど深くは感じられないものです。

だから、願いのかなわないことが、深く身にしみて感じられます。

総じて、嬉しいことを読んだ歌には、深い歌は少なくて、 願いのかなわないことを悲しみ憂えた歌に、しみじみとした趣のある歌が多いのものなのです。

だからといって、つらく悲しいのを風流であるとして願うのは、人の本当の心なのでしょうか。

素直なこころ

本居宣長が兼好法師の考え方に正面から反論している姿勢がよくわかりますね。

人間は素直に、自分の心に浮かんでいく心の様子を言葉にたくしていくと彼は考えていました。

それをむしろ人の裏側に立って見ていくような書き方は好まなかったに違いないのです。

ここまでくると、どちらが正解ということはないような気もしてきます。

1つの事象をどちらの側から見るかという視点の問題ともいえます。

数百年後に、かつての随筆家の書いた作品を批評するという真摯な態度を味わってください。

きっと兼好法師の美意識が許せなかったのでしょう。

それももう一人の作家の態度と言えるような気がします。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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