蔵人頭(くろうどのとう)
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は『大鏡』を読みましょう。
藤原行成(972~1028)は平安時代中期の公卿で書道の達人です。
小野道風、藤原佐理とともに「三蹟」と称せられ、世尊寺流の祖となりました。
清少納言とも親しく、蔵人頭になって弁官を兼任したので「頭の弁」と呼ばれ、『枕草子』にもしばしば登場します。
本文はその才能と学問をうかがい知ることのできる逸話です。
蔵人頭は天皇の側近として殿上の一切をとりしきる、蔵人所の実務上の長官をさします。
行政の最高幹部になることが約束されていました。

貴族にとってあこがれの職務なのです。
長徳元年(995年)に蔵人頭・源俊賢が参議に昇進し、後任として行成が蔵人頭に任ぜられました。
前任の俊賢が一条天皇に対して行成を推挙したため、一躍蔵人頭に抜擢されたといわれています。
行成の登用は、人々に驚きの目をもって迎えられました。
このような状況の中、長保元年(999年)藤原道長の長女・彰子が一条天皇の後宮に入内します。
12月に太皇太后・昌子内親王が崩御したことをきっかけにして、道長は第一皇子・敦康親王の母で一条天皇の中宮定子に対抗するため強硬手段に出ます。
娘の彰子を一条天皇の中宮にと画策したのです。
この時に暗躍したのが蔵人頭であった藤原行成です。
行成の具申に対して一条天皇は許諾の意向を示しました。
彰子が立后するための大義名分を考え、展開したのも行成でした。
その結果、翌長保2年(1000年)彰子は一条天皇の中宮になったのです。
ここから一気に道長の時代が訪れることになりました。
いわば、その道を切り開いた案内人の役を藤原行成が果たしたといってもいいのかもしれません。
本文
この侍従大納言殿こそ、備後介とてまだ地下(ぢげ)に御座せし時、蔵人頭になり給へる、例いとめづらしきことよな。
その頃は、源民部卿殿は、職事(しきじ)にておはしますに、上達部になり給ふべければ、一条院、「この次にはまた誰かなるべき」と問はせ給ひければ、「行成なむまかりなるべき人に候ふ」
と奏せさせ給ひけるを、「地下の者はいかがあるべからむ」とのたまはせければ、「いとやむごとなき者に候ふ。地下など思し召しはばからせ給ふまじ。
ゆく末にもおほやけに、何事にもつかうまつらむにたへたる者になむ。
かやうなる人を御覧じ分かぬは、世のためあしきことに侍り。

善悪をわきまへおはしませばこそ、人も心遣ひはつかうまつれ。
このきはになさせ給はざらむは、いと口惜しきことにこそ候はめ」と申させ給ひければ、道理のこととはいひながら、なり給ひにしぞかし。
おほかた昔は、前の頭(さきのとう)の挙によりて、後の頭はなることにて侍りしなり。
されば、殿上に、我なるべしなど、思ひ給へりける人は、今宵と聞きて参り給へるに、いづこもととかにさし会ひ給へりけるを、「誰ぞ」と問ひ給ひければ、御名のりし給ひて、
「頭になしたびたれば、参りて侍るなり」とあるに、あさましとあきれてこそ、動きもせで立ち給ひたりけれ。
げに思ひがけぬことなれば、道理なりや。
現代語訳
この侍従大納言殿(行成)こそは、備後介と申して、まだ地下人で昇殿もされない身分の時に、一足飛びに蔵人頭に任ぜられなさったのですが、こういう例は実に珍しいことです。
その当時は、源民部卿殿(俊賢)が蔵人頭でいらっしゃいましたが、公卿に昇進されるはずでしたので、一条天皇が「後任にはまた誰を任ずるのが適当であろう」とお尋ねになりましたところ、
「行成こそ任ぜられるべき適任者でございます」と奏上なさいましたが、天皇は、「地下の者はどうであろうか」とおっしゃいましたので、「行成はまことに捨てがたい人物でございます。
地下だからといって、ご遠慮あそばすには及びますまい。
将来までも、朝廷に対し、何事につけても、ご仕え申し上げるに十分の能力のある者でございます。
このようなすぐれた人物をお見分けなされぬのは、世のためによくないことでございます。

君たるお方が、善悪を弁えていらっしゃればこそ、人々も心を尽して懸命に励むのでございます。
この際、ご任命あそばさないといたしましたなら、まことに残念なことでございましょう」と申し上げられましたので、当然のこととはいいながら、推挙のまま蔵人頭になられたのでした。
だいたい昔は、前蔵人頭の推挙によって、後任の蔵人頭が任ぜられることでございました。
そこで、殿上の間にも、蔵人頭には自分こそきっとなるであろうなどと思っていらっしゃった人が、ご任命が今夜と聞いて、そのつもりで参内なさったところ、
どこらあたりかでこの殿(行成)とばったりと出会われ、「どなたですか」とお問いになりますと、お名乗りになって、
「蔵人頭に任じていただきましたゆえ、参内いたしておるのでございます」と答えられましたので、その人はなんということかと茫然とし、身動きもせず、立ちすくんでおられました。
本当に思いがけないことでしたから、驚き呆れるのももっともなことでした。
行成と道長
蔵人頭は、天皇の側近中の側近として詔勅の起草、意向の伝達、他の公卿たちとの関係を調整する役割を果たします。
つまり天皇と貴族政治を接続する要の役職でした。
それだけにこの職に誰が就くかは、単なる人事異動ではなかったのです。
藤原行成がなぜ蔵人頭に抜擢されたのかを少し考えてみましょう。
彼は藤原北家の出身です。
しかし道隆、道兼、道長らの嫡流とは距離があり、外戚としての政治的後ろ盾は乏しい存在でした。
しかしその一方で、儀礼や文書の実務に精通し、漢詩や書にも優れていました。
それだけに天皇の信任を得やすかったのです。
さらに派閥色が薄く、中立的な立場にいました。
一条天皇はもともと文化的な素養を重んじる天皇であったので、行成の学識や実務能力を高く評価していたと思われます。
その結果が天皇主導の人事になったのではないでしょうか。

この時点では、そこまで道長にぴったりと寄り添うというレベルではなかったと思われます。
しかし道長にとって、行成は想像以上に価値のある存在でした。
権力を掌握するためには天皇とその周囲にいる人物を敵に回さないことです。
行成は有能でしたが、独自の政治基盤を持っていませんでした。
そういう意味で大変に利用しやすかったのです。
結局、蔵人頭として彼は天皇のそばにいる人物の代表でもあり、道長の思惑通りに動いてくれるキーパーソンになりました。
道長は独裁をめざしてはいましたが、天皇制や官僚制をうまく利用し、その背後から実権を握ろうとしたのです。
行成のような有能で忠実な人間がとにかく必要でした。
官僚機構の中で自分が十分に機能していることを、行成自身もよく知っていました。
だからこそ、道長には反抗しなかったのです。
両者の関係は持ちつ持たれつであったということでしよう。
道長は、行成のような「天皇に近いが政治的に無害な人物」を重要ポストに据えることで天皇の権威を損なわずに実権を掌握するという高度な権力の運営をしました。
そのためには、どうしても一条天皇と彰子の間に次の天皇となるべき男の子が必要でした。
彰子に子供が授かったことで、ついに外祖父の立場も見事に手にしました。
いつの時代も権力に座ることの難しさには共通する要素があります。
それをぜひ本文から読み取ってください。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
