【大学・転部・編入学】ちゃんと考えて受験をしないと後が大変です

学び

転部試験

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は自分の話を少し書きます。

転部試験を受けた時の顛末です。

ご存知ですか。

大学にはいくつもの学部がありますね。

基本的には入学時に専攻の学科まで決まっています。

教養学部のある大学では、3年生になる時に専攻を決めるところもあります。

通常はメジャーという表現を使います。

アメリカではいくつかのメジャーを持っているのが普通です。

しかし日本は、だいたい1つですね。

ぼくにとって、最初に入った学科は悲惨そのものでした。

数学科だったのです。

嫌いじゃありませんでした。

数式が解けたり、答えがでたりする時の心地よさは格別です。

代数などは、高級なマジックをみているかのようでもありました。

解けるようになると、ますますのめり込んでいきます。

それならば、数学で生きていこうかと思いました。

1番てっとりばやいのが教師になることです。

好きなクラブ活動をして、暢気に暮らせるだろうと思いました。

まさにコンピュータ時代の幕開けでした。

とはいえ、記憶装置はフロッピー以前です。

今では誰も見たことのない機械ですね。

最初の授業

大学に入って最初のショックは、1時間目の授業でした。

講義内容は「デデキントの切断」です。

聞いたことがありますか。

ぼくはそれまでデデキントなどという言葉を耳にしたこともありませんでした。

人間の名前なのか、あるいはある種の暗号なのか。

全く不案内でしたね。

線型代数学の基礎では、直線が連続であるということはとても大切なことなのだそうです。

先生は突然、黒板になにやら見たことのない数式を書きました。

その中には、高校で全くお目にかからないAを逆さまにした文字なども入っていました。

先生はそれをいきなり説明し始めたのです。

皆わかっているのかどうか、とにかくノートを必死にとっています。

ぼくもひたすら写しました。

しかし何が書いてあるのかさっぱりわかりません。

途中まで説明した先生は、ここまでやったのだから、あとはわかる人が解いてみなさいと言いました。

誰かいないかなあと先生が学生の顔を見回した瞬間、ある男子学生が突然手をあげたのです。

その学生は大きな黒板を使っていきなり、右の端から解き始めました。

ところがどこまでいっても終わりません。

ぼくにはもちろん何をやっているのか皆目理解不能です。

しかしとうとう左の端の下まで来た時、その学生は先生に向かってできましたと言ったのです。

ぼくにはチンプンカンプンで、何をやっているのかわかりません。

しかしその問題をきちんと理解している人がいるという事実にまず驚きました。

本当にこの時のショックは今でもありありと思い出せます。

入試問題との落差

入試の問題が解けるというレベルなど、たんなる子供だましだということがすぐにわかりました。

先生は実に優雅に黒板を眺め、ふんふんと頷きながら、これでいいねとすぐに呟きました。

こんな衝撃的な授業から、ぼくの大学生活は始まったのです。

その頃は5月病などという表現がまだありました。

希望に燃えて大学に入ったものの、何をしたらいいのかよくわからなくなってしまう症状です。

燃え尽き症候群ですかね。

方向性を見失って、不登校気味になることを言います。

今でも全くないことはないでしょう。

ずっと5月病なんていう人も存在するといいますからね。

ぼくの状況はかなり暗いものでした。

同じ人間でありながら全く言葉が違う人と一緒に教室に座っていることのつらさを、ぼくはこの後2年間味わうことになったのです。

Tumisu / Pixabay

なぜこの学科に入ろうとしたのか、我が身を呪いました。

「群論」「ヒルベルト空間論」「トポロジー」などという名前を聞いただけで今でも寒気がしてきます。

それからの日々、ぼくはなんとかして自分のアイデンティティを確立する必要にせまられました。

このままではつぶされていくのが目に見えていたからです。

自分は何に向いているのか、必死で考えました。

入学前にもっと真剣に考えるべきでしたね。

本人なりにはいろいろ悩んだのですが、先輩がみな理工系の人だったので、ついつられてしまったのです。

そんなに数学が嫌いじゃありませんでしたから、なお厄介です。

入試のレベルと大学の数学は月とスッポンです。

言語体系が全く違う。

なんでも無限大にして考えないと気がすまないのです。

決心

ぼくは数式ではなく、もしかしたら言葉が好きなのではないかと考えました。

それまで思ってもみないことでした。

高校時代は国語が嫌いではないというレベルに過ぎなかったのです。

しかしそんな暢気なことをいっている場合ではなくなりました。

とにかくなんとかしなくてはいけないのです。

3年になったらゼミに入り、先生と1対1の授業を受けなくてはなりません。

卒業など夢のまた夢です。

退学することも真剣に考えました。

とにかく大学の相談室へ駆け込みました。

転部の相談です。

毎年この時期になるとたくさんの学生が来ると先生が話してくれました

この学科は第1志望ではなかったとか。

勉強する気がおきないとか。

今の学部の雰囲気がいやだとか。

多岐にわたる内容のようです。

その時のぼくもまさにそれだったのです。

しかし相談窓口の先生は大変親身に話を聞いてくれました。

今でも感謝しています。

日本の多くの大学では転部転科をいやがります。

ここには日本の大学の閉鎖性の問題があります。

序列化した大学や学部意識を変えなくてはいけませんね。

偏差値で輪切りにされた日本の大学は、実に横の風通しが悪いのです。

それからの2年間、ぼくは仮面浪人のような暮らしをしました。

文学をするためなら、というより数式のラビリンスから脱出するために、あらゆる方策を練りました。

試験科目は、国語、論文、面接、英語、第2外国語でした。

ぼくはフランス語をとっていたので、まずそのあたりからとりかかるしかないと決心しました。

しかしその後の道は平坦なものではありませんでした。

生きることは不条理との戦いです。

サルトルはそれを「実存」と名づけました。

転部試験は入試と同じ日だったのです。

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面接官にその時の自分の状況を洗いざらい話しました。

あれからかなりの年月が過ぎています。

今なら、再受験か、編入学も考えなくてはならないでしょうね。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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