【猫また・徒然草】怖いと思いこむと神経がメッチャ過敏になるのだ

残念な人々

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回はちょっと残念な人々について考えてみましょう。

徒然草にはそういう人間がよく登場します。

特にお坊さんが多いですね。

仁和寺の僧侶が多いのです。

昔は世間一般の人たちからみればお坊さんは特に権威がありました。

僧侶は偉い人、人格のある立派な人というのが相場だったのです。

だからこそ、彼らの失敗談を好んで扱ったのでしょう。

笑い飛ばしたかったのです

お坊さんが立派な人とは眼らないよというのが兼好の基本的なスタンスでした。

そうでないこともちょいちょいあるから、よく目を開いて御覧なさいというワケです。

仁和寺の近くに住んでいたこともあって、親しみがあったんでしょうね。

このお寺のお坊さんがしばしばターゲットになりました。

きっと何か事件が起こるたびにすぐ近所の噂になったものと思われます。

失敗話が徒然草にはいくつも描かれているのです。

その中の1つ、頭に鼎をかぶって抜けなくなったお坊さんの話は記事にしました。

リンクを貼っておきます。

後で読んでみてください。

兼好はけっして彼らをバカにしているワケではありません。

そこにある類まれなユーモアや人間臭さを捉えているのです。

今回は「猫また」騒動です。

ネコはその眼の鋭さや不思議な習性により、古来から魔性のものと考えられていました。

葬儀の場で死者をよみがえらせたり、ネコを殺すと7代までたたられるなどと恐れられていたのです。

そんな背景から猫またの伝説が生まれたのでしょうね。

化け猫などという話を聞くと、ちょっと怖くなります。

猫またも化け猫の一種だと考えられていたものと思われます。

本文

「奥山に猫またといふものありて、人をくらふなる」と、人のいひけるに、「山ならねど

も、これらにも猫のへあがりて、猫またになりて、人とることはあなるものを」といふ者

ありけるを、何阿弥陀仏とかや、連歌しける法師の、行願寺の辺にありけるが聞きて、ひ

とりありかむ身は心すべきことにこそと思ひける頃しも、ある所にて夜更くるまで連歌し

て、ただひとり帰りけるに、小川のはたにて、音に聞きし猫また、あやまたず足もとへふ

とよりきて、やがてかきつくままに、頸のほどをくはむとす。

肝心もうせて、ふせがむとするに力もなく、足もたたず、小川へころび入りて、「助けよ

や、ねこまた、よや、よや」と叫べば、家々より、松どもともして走りよりて見れば、こ

のわたりに見しれる僧なり。「こは如何に」とて、川の中よりいだきおこしたれば、連歌

のかけものとりて、扇、小箱など懐に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有にして助かりた

るさまにて、はふはふ家に入りにけり。

飼ひける犬の、暗けれど主を知りて、飛びつきたりけるとぞ。(89段)

現代語訳

「奥山に猫またというものがいて、人を食うそうだ。」と、ある人が言ったところ、「山

ではないけれど、このあたりにも、猫が年をとって変化して、猫またになって、人を食う

ことはあるそうだ。」と言う者がいたのを、何とか阿弥陀仏とか言っただろうか、連歌を

していた法師で、行願時の辺りにいた法師がこの猫またの噂を聞いて、一人で出歩く身は

気をつけねばいけないことだと思ったちょうどそのころ、ある所で夜が更けるまで連歌を

して、ただ一人帰った時に、小川のほとりで、うわさに聞いた猫またが、狙いたがわず足


もとにさっと寄ってきて、そのまま飛びつくやいなや、首のあたりを食おうとしました。

正気も失って、防ごうとするが力もなく、足も立たず、小川へ転び入って、「助けてくれ

。猫まただ」と叫ぶと、家々から、人々がたいまつをともして走り寄ってこの法師を見る

と、このあたりで見知っている僧です。

EliasSch / Pixabay

「これはいったいどうしたことか。」と人々が言って、川の中から抱き起したところ、連

歌の勝敗をかけた品物を取って、その扇や小箱など、懐に持っていたものも、水に入って

しまったとのことです。

やっとのことで助かったという様子で、這うようにして家に入りました。

実は飼っていた犬が、暗いけれど主人と分かって、飛びついたのだったということでした。

恐怖心

この段には連歌という言葉が登場します。

何か、わかりますか。

5・7・5の発句と7・7の脇句の,長短句を交互に複数人で連ねて詠んで一つの歌にしていく形式の文学なのです。

平安時代半ばから始まり、やがて連ねて読まれる形になりました。

鎌倉時代初期には100句を基本型とする形式の百韻が主流となりました。

南北朝時代から室町時代にかけて大成されたのです。

「水無瀬三吟百韻」などは歴史に残るものです。

ここに最初のところだけを載せておきましょう。

水無瀬三吟百韻

雪ながら山本かすむ夕べかな  宗祇
行く水とほく梅にほふさと   肖柏
川風に一むら柳春見えて    宗長
舟さす音もしるきあけがた   宗祇
月や猶霧わたる夜に殘るらん  肖柏
霜おく野はら秋は暮れけり   宗長
なく蟲の心ともなく草かれて  宗祇
かきねをとへばあらはなるみち 肖柏

いかがでしょうか。

格調が高いですね。

ところが一般にはこの話にもある通り、連歌は勝敗をかけたゲームでした。

景品が楽しみでそういう場所に出入りした人も多かったのです。

室町時代あたりから随分と盛んになったものの、やがて飽きられてしまいます。

その流れを嫌って発句から派生した俳諧の世界が生まれたのです。

ここに登場するお坊さんは仁和寺の人ではないですね。

行願寺は一条大路北、油小路東にあった天台宗のお寺です。

人間は1度怖いと思うと、それが脳の中に刷り込まれてしまう生き物なのかもしれません

明治期の落語家、三遊亭圓朝は多くの怪談ものを創作しました。

その代表作に「真景累ヶ淵」があります。

このタイトルにある「真景」は「神経」の言い換えなのです。

圓朝は怖いという感情のはすべて神経の思い込みによるものだと考えていました。

だからどうすれば怖くなるのかということを考え、噺をふくらませていったのです。

興味と関心

授業でやる時は、ただ猫またの話をしただけでは生徒が興味をもってくれません。

今では怖いものがたくさんありますからね。

ホラー映画などはこれでもかという怖さを前面に出してきます。

それよりもむしろ人間の神経とか心理に及ぼすものの怖さの方が、より関心をもってくれました。

1番生徒の興味をひいたのは実際に体験した怖い話です。

錯覚に基づく自分の経験を披露してもらうと、一気に教室の空気が冷えます。

もちろん、最後は笑い話でもいいのです。

自分の中にある「怖いもの見たさ」の神経系統にピッタリの話があると、生徒はほとんど声も出さずにじっと聞き入ります。

猫またレベルで十分なのです。

「なあんだ」で終わった方がむしろ楽しかったですね。

ちなみに猫またというのは藤原定家の日記『明月記』に1番最初に登場したそうです。

奈良に現れて1夜に7~8人を食い殺したとか。

『明月記』の猫またはその形が「目はネコのごとく、体は大きい犬のようだった」と記されています。

こういう話はどんどん大きくなっていくのが普通です。

あの小倉百人一首を選んだ定家が猫またの話を日記にしたためているというのが愉快です。

いつの時代も怖いものはありました。

現代ではなんでしょうか。

皆さんも1度よく考えてみてください。

ひょっとしてコロナなのでしょうか。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

【徒然草53段・仁和寺の法師】中世における滑稽話の最高傑作はこれ
徒然草53段に出てくる仁和寺の法師の話は実に滑稽です。酒の席で調子にのりついそばにあった鼎を頭からかぶってしまいます。それが抜けなくなって大変なことになったのです。最後は耳がちぎれてもいいから抜けということでした。笑い話ではすまされませんね。

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