透明な小説
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回はかつて読んだ本の中で1番澄んだ印象のある本の話をさせてください。
小川国夫の『アポロンの島』がそれです。
ほとんどの人が全く知らない作家でしょう。
今から10数年前に亡くなりました。
古井由吉、黒井千次、後藤明生らと共に内向の世代の作家と呼ばれています。
その彼が1965年、私家版として『アポロンの島』を自費出版しました。
それを読んだ小説家、島尾敏雄が突然藤枝市の小川家を訪れたのです。
9月の『朝日新聞』「1冊の本」欄に紹介しました。
『アポロンの島』を島尾が激賞したことで、一躍その名が知られることとなりました。
島尾敏雄という作家の名前を初めて聞くという人も多いでしょうね。
代表作は『死の棘』です。
思いやりの深かった妻が、夫の情事のために突然神経に異常を来たします。
狂気に憑かれた妻は夫の過去をあばきたてるという小説です。
ほぼ現実にあったいわゆる私小説と呼ばれるジャンルの作品です。
壮絶な息苦しい小説です。
島尾敏雄は小川国夫の文章のどこに惹かれたのでしょうか。
彼の文体の透明感は他の追随を許しません。
極限まで無駄な言葉を削ぎ落すとこのようになってしまうのかという典型のような気さえします。
自然の美しさを表現するのが大変にうまいのです。
難しくいえば神との交感でしょうか。
地中海を原型とする小さな共同体の中をオートバイで移動していく主人公の目にうつる風景が、ごくありのままに描かれていきます。
水彩絵の具を使ったスケッチのようにも感じられます。
小説との出会い
小説と読者との出会いは半ば偶然です。
もちろん文学賞をとり、それがきっかけになるという筋道も当然あるでしょう。
しかしまったく作者の名前も知らず、書店の本棚にひっそりとおいてあったものを手にとって、それが一生記憶に残るということもあるのです。
出会いはいつも突然やってきます。
だからこその一期一会なのでしょうね。
ぼくがこの小説に出会ったのはある古書店を訪れたのがきっかけです。
まだ学生の頃の話です。
本を読むのが唯一の楽しみでした。
この本を買うために、何度同じ古本屋さんをのぞいたことでしょう。
ぼくにとっては本当に懐かしい1冊なのです。
大学の帰り、古書店巡りをするのが楽しみでした。
バスに乗ってしまえば、すぐなのですが、しかし殆ど歩いた気がします。
というのも道の両側にたくさんの古本屋さんがあり、それを一軒一軒ひやかして回るのが大きな楽しみだったからです。
時には途中でくたびれはて、立ち食いのおそば屋さんに寄ったこともあります。
しかし本を見抜く目はこうした日々に養われたと信じています。
小川国夫の書いたこの本は店の佇まいや、今でもそれが置いてあった棚の風景と一緒にはっきりと思い出せます。
それは本当にひっそりとおかれていました。
それまで聞いたことのない作家でしたから、たいして期待もせずに手を伸ばしたのです。
審美社という出版社もはじめて聞く名前でした。
茶褐色の布製の表紙の本で、ていねいにパラフィン紙がかけてありました。
その古書店は新刊本も扱っていましたので、ぼくが手にしたのはその中の数少ない新しい本だったのです。
紙の質が柔らかくて、手にやさしかったのをよく覚えています。
その時はなんだか買うのがためらわれて、すぐにまた本棚に戻してしまいました。
しかしそれからなんとなく気になって仕方がないのです。
不思議な感覚でしたね。
小川国夫という作家
少し調べてみると、その本は彼が自費出版したものでした。
発行してはみたものの1冊も売れなかったのです。
8年後に作家の島尾敏雄が朝日新聞でとりあげ、その後審美社が引き受けたという経緯があるものでした。
小川国夫は1953年に「東海のほとり」を『近代文学』に発表します。
その年の10月フランスへわたりパリ・ソルボンヌ大学に3年間私費留学。
スイス、イタリア、ギリシアなどへの旅行記を元にして小説を書きました。
さらにドイツ、オーストラリア、イギリスへの旅を終え、フランス留学から帰国したのです。
大学には復学せず、そのまま創作活動に入りました。
私家版を出版したのが1957年。
日の目を見るまでに長い時間がかかったのです。
『アポロンの島』は淡々と綴られる装飾性のない文体で構成されています。
目に映るのはギリシャの強い日差しや土埃の舞うでこぼこ道、霧に煙った港などです。
作品は一言でいえば難解ですね。
途中で何度もページを閉じてしまう人も多いのです。
それでもまた読みたくなる。
この作品には不思議な魅力があります。
ぼくはそれから何度か本屋に足を運び、時々立ち読みをしました。
どれも大変短いものですが、そこにはギリシャの乾いた空と香気がありました。
飾らない文体の中に若さを感じました。
しかしそれでもなかなか買う気にはなれません。
とにかくお金がなかったのです。
購入した日の思い出
今日こそどうしても買おうと思って、その書店をたずねたのは、それから半年ぐらいたった後のことでした。
今でもその日の気分をよく覚えています。
とにかく他の書店にはどこにもないのです。
その棚にだけ、いつもひっそりと置かれていました。
やっと買い求め、鞄の中につめて駅まで歩く間、ぼくは幸せでした。
その交差点近くには大きな大使館があり、門の周囲の鬱蒼とした木立の風景をいまでも思い出すことができます。
大学2年の夏でした。
その後3年生になって饗庭孝男先生のゼミをとった時、彼が小川国夫の友人であることを知りました。
その後先生のお宅を何度かたずね、お酒を飲みながら、この小説家の話をしたのもいい思い出です。
本との出会いは劇的なものだと思います。
後になって小川国夫が立原正秋と友人だったということも知りました。
立原正秋と小川国夫にどのような繋がりがあるのか、その時は全くわからなかったのです。
立原とは若いときから親交がありました。
同人雑誌『青銅時代』を通じての交流だったのです。
付き合いは立原の死まで続きました。
鎌倉を舞台にして、能や武道にまつわる作品を中心に書いてきた小説家との交流は意外でしたね。
小川国夫の小説はほとんど国語の教科書にも載っていません。
授業で取り上げたこともありませんでした。
『夜の水泳』という短編がいくつかの出版社の本に所収されているとのこと。
『流域』の中の1編です。
ぼくの家の本棚には今も『アポロンの島』が大切にとってあります。
あれから長い時間が過ぎました。
この作品は今も講談社文芸文庫で読むことができます。
試みに手にとってみてください。
本との出会いはまさに一期一会なのです。
最後までお読みいただきありがとうございました。