増鏡
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は歴史物語を取り上げましょう。
『増鏡』はいわゆる鏡物と呼ばれる歴史をつづった物語の最後の作品です。
授業では『大鏡』『今鏡』『水鏡』につづく作品として覚えるようにと言われます。
この物語は過ぎ去っていく王朝の気配を、朝廷の中から静かに描写した作品です。
名前は知っていても、「どの時代を描いたのか」「大鏡と何が違うのか」「歴史書なのか物語なのか」があまりはっきりとはしないのです。
政治の記録というより、移り変わる朝廷世界の余韻を残す物語だと考えていいのではないでしょうか。
四鏡はそれぞれ扱う時代が異なります。
『大鏡』が摂関期、『今鏡』が院政期、『水鏡』が古代を広くあつかうのに対し、『増鏡』は後鳥羽院のころから後醍醐天皇の時代、そして鎌倉幕府滅亡前後までを描くことで、王朝世界の終盤を受け持っています。

作者はまったくわかっていません。
しかし宮廷社会や和歌文化への深い理解が見てとれます。
政治の流れや、人物の様子、儀式の細部まで描きこんでいますからね。
成立は南北朝初期ごろと思われますが、作品はそれより前の時代のものです。
つまり『増鏡』は、すでに失われつつあった王朝世界を、少し後の時代からふり返った作品だと考えるのがいいでしょう。
作品全体にどこか懐かしさが漂います。
衰退していく王朝文化への憧憬もあります。
『大鏡』の持つ明るさと比べると、静かに歴史を見つめた本ということがいえますね。
本文
上のその道をえ給へれば、下もおのづから時を知るならひにや。
男も女もこの御代にあたりて、よき歌よみ多く聞え侍りしなかに、宮内卿の君といひしは村上の御門の御後に俊房の左の大臣と聞えし人の御末なれば、はやうはあて人なれど、官あさくてうち続き四位ばかりにうせにし人の子なり。
まだいと若き齢にて、底ひもなく深き心ばへをのみ詠みしこそいとありがたく侍りけれ。
この千五百番の歌合の時、院の上のたまふやう、こたみは皆世に許りたる古き道の者どもなり。
宮内はまだしかるべけれども、けしうはあらずと見ゆめればなむ。

かまへてまろが面起こすばかりよき歌つかうまつれとおほせらるるに、面うち赤めて、淚ぐみて侍ひけるけしき、かぎりなき好きのほどもあはれにぞ見えける。
さてその御百首の歌いづれもとりどりなる中に、
薄く濃き野辺のみどりの若草に跡まで見ゆる雪のむら消え
草の緑の濃き薄き色にて、こぞのふる雪の遅く疾く消えけるほどを、推しはかりたる心ばへなど、まだしからむ人はいと思ひよりがたくや。
この人、年つもるまであらましかば、げにいかばかり、目に見えぬ鬼神をも動かしなましに、若くて失せにし、いといとほしくあたらしくなむ。
現代語訳
上の身分の人が和歌の道に深く通じていらっしゃるので、下の身分の者たちも自然にその時代にふさわしいものを理解するようになる、ということなのでしょうか。
男女ともに、この御代にはすぐれた歌人がたくさん現れました。
その中で、宮内卿の君と呼ばれた方は、村上天皇の御子孫で、俊房左大臣と申し上げた人の子孫にあたります。
もともとは高貴な家柄の人でした。
しかし、官職にはあまり恵まれず、代々四位程度の位のまま亡くなっていった源師光の娘なのです。

まだ非常に若い年齢であったのに、限りなく奥深い心情ばかりを歌に詠んでいたことは、本当にめったにないすばらしいことです。
この「千五百番歌合」のとき、後鳥羽院が次のようにおっしゃいました。
「今回は、みな世間から認められている、和歌の道の経験豊かな人々ばかりです。あなた(宮内卿)はまだそこまでの人ではないけれども、悪くはないように見えるのでね。ぜひとも、私の顔が立つほどの、すばらしい歌を詠んで欲しいものです」
とおっしゃったところ、宮内卿は顔を赤らめ、涙ぐんでしまいました。
その様子から、和歌を深く愛し、心を打ち込んでいるその並々ならぬ情熱が、しみじみと感じられて、いかにもいとおしく思われたのです。
さて、そのとき詠んだ百首の歌は、どれもそれぞれにすばらしいものでしたが、その中に次の歌があります。
薄く濃き野辺のみどりの若草に跡まで見ゆる雪のむら消え
「野辺の若草の緑が、濃いところや薄いところとまだらになっている。その緑の上には、雪がまだらに消え残った跡まで見えている。」という歌でした。
草の緑の濃淡によって、去年から降り積もっていた古い雪が、場所によって早く消えたり、遅くまで残ったりした様子を想像して詠んだのです。
このように細やかな心の描写は、まだ未熟な歌人にはなかなか思いつくことのできないものです。
この人が、もしもっと長く生きて年齢を重ねていたならば、本当にどれほどすばらしい歌を詠んだことでしょうか。
目には見えない神々や鬼神までも、その歌によって感動させ、動かすほどの歌人になったに違いないと思われます。
それなのに、若くして亡くなってしまったことが、本当に気の毒で、惜しいことでした。
ポイント
この部分を読むと「若くして亡くなった宮内卿の、将来を惜しむ評価」が限りなく高いことがよくわかります。
宮内卿は若い歌人でありながら、深い心情を歌に詠む才能があったと評価されているのです。
後鳥羽院から期待をかけられるほどだったというのですから、並々の技量ではなかったのでしょう。
鴨長明は『無名抄』で宮内卿を俊成女とともに同時代の「昔にも恥じぬ上手」と賞讃しています。
長明はその死の事情を「あまり歌を深く案じて病になりて」ひとたび死にかけ、父から諌められてもやめず、ついに早世したと書き残しています。
「薄く濃き…」の歌では、雪の消え方を草の色から想像するという非常に繊細な感性を示しています。

もっと長生きしていれば、神々をも感動させるほどの歌人になっただろうという作者の言葉には愛情があふれていますね。
彼女はこの見事な歌によって後鳥羽院宮内卿とも「若草の宮内卿」とも呼ばれました。
しかし和歌に芽吹いたこの新しい才能は、20歳ではかなく散ってしまったのです。
定家はこの作品を百人一首にはとりませんでした。
それというのもこの歌が風景の描写を主体にしたものだったからです。
歌の心に重きを置いていた定家は、「有心」ということをつねに心に留めていました。
それだけにその描写力と観察の鋭さには感嘆したものの、秀歌100首である百人一首の中には入れませんでした。
「千五百番歌合」が後鳥羽院の命を受けて行われたのは、建仁元年(1201)六月と言われています。
和歌史上最大規模の歌合です。
「新古今和歌集」にはここから90首が入集しています。
この歌からは、宮内卿の持つ絵画的美意識がにじみ出ていて、作者の聡明さも垣間見えます。
「目に見えぬ鬼神をも動かしなまし」 は、和歌の力を最大限に評価する表現です。
宮内卿の才能そのものだけでなく、その才能が若くして失われてしまったことへの深い惜しみが、この文章全体を色濃く覆っているように思えます。
歌は歌人たちの命さえも短くしてしまったのです。
それだけの価値があると多くの人に考えられていたのでしょうね。
まさに、文芸の持つ力だといえます。
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。
