共感的関心
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は「利他」と「共感」というテーマで少し考えてみたいと思います。
これは、とある大学の小論文入試に出された問題です。
典型的な日本人論の文章だと思われます。
はるか以前から、日本人論は入試に出題されてきました。
代表的なものには目を通しておいてください。
『菊と刀』『日本人とユダヤ人』「タテ社会の人間関係』『縮み志向の日本人』。
あげていけばいくらでもあります。
この国は島国なので、陸続きの土地に住んでいる民族とは微妙に性格が異なるのかもしれません。
比較文化論の対象としては格好のテキストなのでしょう。

ここでは「利他」の精神について、経験に基づいた視点から論じられています。
筆者は人に「助けて」と言えないことを、日本人の性格の問題だと思っていたとあります。
近年はボランティアという考え方がずいぶん広がりましたね。
熊本の大地震や、千葉県の大雨被害のニュースなどを見ていても、多くの人が現地に入って手伝いをしているシーンが報道されています。
被害者の方たちも、本当に感謝している様子がみてとれます。
それでもまだ日本人は困っている人への同情心が弱いのでしょうか。
それが事実だとしたら、何が原因なのか。
考えてみる必要がありますね。
キーワードの1つが「集団主義」と「個人主義」の違いです。
日本人はどちらかといえば、「集団」の利益をまず最初に考える傾向が確かに強かったのかもしれません。
しかしそれも近年はかなり様変わりしています。
この文章では「共感的関心」は、日本のような「集団主義」の国よりもアメリカ的な「個人主義」の国の方が高いというデータから始まっています。
課題文
学生時代は進学やクラス替え、社会人になってからは転勤や異動が重なる。
期待より不安が上回り、心がざわつくのだ。
しかも慣れない環境の中、困ったことが起きても「助けて」と言えない。
それは、性格のせいだと思ってきた。

ところが名古屋大学教授の石井敬子さんが書いた文章を読んで驚いた。
日本人は米国人に比べ、困っている人への同情心が低く、困っている人を見ても気の毒と思わない、そしてその傾向が強い人ほど「助けて」と言えないのだそうだ。
石井さんによれば、他人を思いやり同情する「共感的関心」と、他者が利他的な行動を取ることへの期待度が高い人ほど、助けを求めやすいとか。
日本人は共感的関心も期待度も米国人より低いそうだ。
日本人は、「あなたが困っているのは、社会規範を逸脱したせいだ」と因果応報的に捉える傾向が強いらしい。
共感的関心とは、他者の視点に立ち、相手の気持ちを想像する力のことである。
個人の利益が集団の利益より優先される国の方が、「相手を助ければ、自分が困ったときに助けてくれるはず」と期待しやすいということか。
日本社会は、ますます個人主義の方向へと進んでいる。
それなのに、他者への共感的関心が低く、助けを求めにくい文化が変わらないままだとしたら、何とも生きづらい国になりそうだ。
一般的に他者を助けたり、助けられたりした共感的な経験を思い出すだけで、助けを求めやすくなるのだという。
だれかを思いやり、心が温かくなった経験なら私にもあるのだが。
朝日新聞 2025年3月『「みんな我慢」の文化を変えるには』
他人の目
自分が他人にどう見られているかを気にしない人は少ないはずです。
人間ならばあたりまえです。
民族性の違いがそれほどあるとも思えません。
しかしじっくり考えてみると、やはり日本人は体裁にこだわりがちなのかもしれません。
同じ民族が狭い土地の中で、農業を続けたきたのです。
ほんの少しの違いでも許せないということが、たびたびあったのでしょう。
この文章によれば、人を助けた経験や助けられた経験のある人ほど、他人に助けを求めやすくなるという希望も示されています。
そのうえ、日本人は米国人よりも、他者から助けてもらったときに強い幸福感を感じるという研究結果も紹介されているのです。
こうした研究はかなり広く実施されているでしょうが、その時の条件設定などにより、エビデンスには違いがあらわれます。

単純に比較することはできません。
助けを求めにくい文化には、どんな要因があるのでしょうか。
困っていも1人で抱え込んでしまう傾向が強いのです。
日本人は行政に相談したり、隣人に訊くなどということをしたがりません。
その基本には「人に迷惑をかけてはいけない」という気持ちが前にですぎる傾向があるからです。
いくら親しい間柄でも「困ったことはないか」と他人に訊くという経験はあまり持っていないのではないでしょうか。
どこかおせっかいの匂いもしますからね。
誰もが「自分で何とかすべきだ」と基本的に考えていたら、問題を解決する糸口が遠ざかるような気もします。
ぼくがアメリカへ行った時、お世話になった人が、これから近所の子供を預かって面倒を見るのだと言っていたのを聞いて、日本とはどこか違うような気がしました。
彼らにとっては隣人の手助けをするのは、ごく当たり前のことなのです。
宗教的な背景があるというわけでもありませんでした。
「利他」というほど大上段に構えてもいないのです。
人間関係
ひるがえって、日本ではどうでしょうか。
他の家の子供を預かって面倒をみるということがごく自然に行われていますか。
そのかわりが学童保育であったり、延長保育であったりしているようにも見受けられます。
日本人は近くの人に「助けようか」と声をかけることがあるのでしょうか。
全くないとはいえませんよね。
それが少なくなれば、互いに支え合う関係を築きにくくなってしまうのは当然のことです。
逆にいえば、困っている人を責める風潮にもつながります。
みんななんとか自分で解決をしているのだから、あなたもそうすべきだとか。

困っているのは本人の責任だと考えてしまいがちです。
その結果、困っている人への共感や援助が生まれにくくなるのです。
1人親家庭の実情などをみれば、なかなか「利他」の考えや「共感的関心」が行き届いていないのがよくわかるはずです。
個人の「努力」にすべてが委ねられてしまいがちなのです。
助けを求めにくい文化には、さまざまな要因がからんでいます。
個人主義というのは、わかりやすい反面、一方で冷たい要素もたくさん孕んでいます。
助けを求めないことの連続が、逆に助け合う機会を失わせてしまうとしたら、それは大きな損失そのものではないでしょうか。
結果として個人も社会も生きづらくなってしまいます。
それではどうしたらいいのでしょうか。
「迷惑をかけない」と考えるのではなく、「お互いに助け合う」ことを大切にすることがどうしても必要です。
助けを求めることを恥ずかしいことにしない環境をつくることが、喫緊のテーマでしょうね。
「お互いさまの社会」へのスムーズな移行は、どうすればもっとうまく進むのかを考えなくてはなりません。
今回も最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
