ゴミに執着する人々
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
セルフネグレクトと聞いて、あなたは何を想像しますか。
何もしたくないという状態に陥った人間が次の瞬間にとる行動はどのようなものなのか。
ここで少し考えてみましょう。
小論文のテーマとしても十分に使えます。
800字程度で書く心構えでいてください。
支援拒否への対応は本当に難しいテーマですね。
援助の手を差し伸べようとしても、それを拒否されてしまうと、もう次に何をしていいのかわからなくなります。
特に厄介なのが人権との関係です。
公序良俗に反しない限り、人は思うように生きられるのです。
ところがその程度がある範囲を越えると、さてどうしたものかと周囲の人間は悩んでしまいます。

個人の力ではどうにもならないとなると、最後は行政に頼るということになるのでしょうか。
しかしそれにも限界があります。
近年、よくテレビなどでゴミ屋敷の問題を扱うことが増えました。
ゴミが堆積しているため、他人が同意なしに廃棄してしまうケースもあると聞きます。
悪臭やネズミ・ゴキブリの発生などにより、近隣の住環境や治安を悪化させることもあるからです。
近隣からの苦情が増えて、どうにもならなくなった様子をよくテレビで放送していますね。
こういう家に住んでいる人の精神状態はどのようなものなのか。
ちょっと理解に苦しみます。
しかしそれを知るのもいい勉強です。
今回、偶然にユニークな文章をみつけました。
看護師、保健師としての経験もある岸恵美子さんのルポです。
彼女の主な研究テーマは高齢者虐待、セルフ・ネグレクト、孤立死です。
なぜこのような案件が起こるのか。
その背景にある当事者の心理的なメカニズムを分析した文章です。
本文
ゴミ屋敷の人たちは、なぜゴミに執着するのでしょうか。
私の過去の調査に照らし合わせると、そういう人たちは、他者の介入を拒む、孤立した人たちに多いように思います。
孤独で、寄り添う人がいないため、物欲に走り、ゴミ屋敷にたどりついたのではないかと感じるのです。
私たちもやがて老いていきます。
すると、モノを簡単には捨てられなくなり、着なくなった洋服や、もらったお菓子の箱、子どもの描いた思い出の絵が、家の中にたまっていきます。
若い頃は決まった場所に片付けることができたかもしれません。
最近は、ゴミの分別も複雑になりましたので、分別できなかったゴミも、少しずつ押し入れにたまっていきます。
コンビニで買ったお弁当の空き容器も、最近はとてもきれいです。
何かに使えるだろうと、とっておくこともあります。
そして数か月が過ぎた頃、家の中が物であふれることになるのです。
片付けられない人たちは、高齢者ばかりではありません。(中略)

若者は分別ができなくなったとは考えにくいですし、足腰が弱って捨てられないわけではありません。
その理由には、「片付けることが面倒になった」とか「一人で寂しくて何もやる気が起きなくなった」「仕事が忙しくて片付ける暇がなかった」「気に入った物を買いためていたら、いつの間にか部屋いっぱいになった」などがあげられています。
セルフ・ネグレクトは決して「ゴミ屋敷」の問題だけではありません。(中略)
長い年月をかけて、その人のライフスタイルの中で生じてくる問題です。
それが単に嗜好や本人の好みの枠を超え、心身に影響を及ぼす範囲と程度までに至ってしまうと、誰かの支援が必要になります。
ただし、セルフ・ネグレクトには「本人の支援拒否」の問題もあります。
本人の自由を尊重するという人権尊重の立場に立つ考えと、たとえ本人からの「拒否」があったとしても、それが必要な情報・知識に基づく合理的な判断ではない場合には、社会的支援につなげていく必要があるとする立場の考えがあります。
認知症などで実行する能力がない場合には、それを補うために、何らかの支援の手を差し伸べることが必要であることは言うまでもありません。
それでは行う能力があって、かつセルフ・ネグレクトである場合、本人が「ほっといてくれ」と言う場合には、個人の生き方を尊重すれば、それ以上支援の手を差し伸べることはできなくなります。
はたして本当にそれでいいのでしょうか。
出典:岸恵美子『ルポ ゴミ屋敷に棲む人々――孤立死を呼ぶ「セルフ・ネグレクト」の実態』
自己虐待とセルフ・ネグレクト
この2つの違いを正確にご存知でしょうか。
どちらも似ている考え方ですね。
ほぼ同じことを言っているのではないかともとれます。
しかし厳密にみていくと、かなり違います。
一見すると似たようなものに見えるというところが一番怖いのです。
自己虐待は、自分を自分で傷つける積極的な行為を含みます。
リストカットなどもその1つです。
それに対して、セルフ・ネグレクトは、もっと消極的な行動をさします。
自分を放置、放任するのです。
日々の消極的な行為を通して、時間をかけて自分の健康や安全を損なっていくのです。
本人は自分が嫌じゃないからこうしているのだと主張しても、単純にはいそうですかと受け取るわけにはいきません。
自分のことは自分でやるからと言われても、それが社会常識に照らして不合理であれば、周囲の人間は何らかの行動を起こさなければならないからです。
さらに厄介なのは、それを自力で行う能力があるかどうかを見極める必要があることです。
ポイントは次の2つです。

➀「行う能力がある」のに「生活において当然行うべき行為を行わない」。
②「行う能力がない」ために「生活において当然行うべき行為を行えない」。
この両者の違いを見極めなくてはいけません。
しかし言葉で言うのは簡単です。
この能力を実際の生活の中で判断するのは容易なことではないのです。
特に認知症などで「行う能力がない」と判断した場合、時間をかけている場合ではありません。
ただちに次の行動に移る必要があります。
特に心身の安全や健康が脅かされる状態にある時は、緊急を要します。
しかしこれには難しい問題も同時にあります。
支援を拒否される背景が多いからです。
その理由としては孤独感、過去のトラウマ、行政や他者に対する不信感、あるいは複雑化した社会生活への「億劫さ」が隠れていることが多いとされています。
なぜ放置してもらいたいのか、何が面倒なのかを時間をかけてていねいに聞き取らなくてはなりません。
拒否の背景にある具体的な難題を1つずつほぐしていく必要があるのです。
手続きの煩雑さ、身体のだるさ、孤独感などに対して、本人が受け入れやすい、最小限の支援から始めるべきです。
冷静に考えてみればみるほど、対応がいかに難しいかということがわかるでしょう。
自身への無関心
高齢者は自分自身への関心が薄れがちですね。
身だしなみや環境の整理整頓などに無関心になる傾向があります。
服装や身なりはもちろん、自宅の掃除や整理整頓がされていない状況も見られます。
さらに人と応対するのが億劫になりがちなケースも多いです。
対人関係が希薄になっていくのです。
家族や友人との交流も減少していきます。
わかりやすくいえば、何事も投げやりになってしまうのです。
意欲の低下とでも呼べばいいのでしょうか。
活動への参加や趣味の喪失などが重なって状況を悪化させます。
症状が進行すると、食事の摂取や適切な医療の受診など、健康や生活に関わる重要な決定を避ける傾向も見られます。
その結果、健康状態に悪影響が出るのです。

栄養失調や病気の悪化、感染症なども懸念されます。
ここまで進むと、さすがに放置しておくことは不可能でしょう。
高齢化は予想以上に私たちの日常生活を内側から蝕んでいます。
無関心であることの怖さとでもいったらいいのかもしれません。
あなたはこの問題をどう考えますか。
ぜひ、文章化してみてください。
今回も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。