「能をつかんとする人・徒然草」1つの道を愚直に突き進むことの難しさ

能をつかんとする人

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は『徒然草』を読みながら、「芸能」の問題を少し考えてみます。

芸の世界について書かれた文章を読むのは以前から好きでした。

たくさんの真理が散りばめられているからです。

最もよく読んできたのは世阿弥の『風姿花伝』でしょうか。

俗に「花伝書」と呼ばれています。

「秘すれば花」という表現は有名ですね。

その他、兼好法師の「徒然草」は芸能だけでなく、人生の全般にわたっていえることが多いです。

上手な弓の使い手になるにはどうしたらいいのか。

木登りの名人が一番気をつけることは何かといったような、ごく日常的な内容がさりげなく纏められています。

そこにも多くの道理が含まれているのです。

今回の「能をつかんとする人」もそのうちの1つです。

少し説教くさいところもありますが、彼の性格がよく表れていて、むしろほほえましい印象があります。

タイトルの「能」というのは「芸能」全般をイメージした方がわかりやすいです。

現代では多くの人が音楽やダンスなどを身近に感じているようです。

芸能などという肩ひじばったことを思い描かなくても、ごく日常的な風景の中に、「芸」の要素はたくさんあるのではないでしょうか。

ぼく自身、15年以上もアマチュアで落語に関わってきました。

今まで何度高座にあがったかわかりません。

覚えた噺の数も100以上はあります。

その間に感じた芸能の持つ厳しさは、やってみてはじめてわかったことがいかに多いかということです。

よく「芸」には「人」(にん)が出ると言います。

その人の人柄がそのままあらわれてしまうという傾向が強いのです。

それだけに、芸は自分との闘いという側面が非常に強いのを肌で感じてきました。

そうした経験を振り返りながら、兼好の書いたこの段を読むと、なおいっそう胸に刺さるものがあります。

本文

能をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。

うちうちよく習ひ得て、さし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得ることなし。

未だ堅固かたほなるより、上手の中に交りて、毀り笑はるるにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜む人、天性、その骨なけれども、

道になづまず、濫りにせずして、年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、双なき名を得る事なり。

天下のものの上手といへども、始めは、不堪の聞えもあり、無下の瑕瑾もありき。

されども、その人、道の掟正しく、これを重くして、放埒せざれば、世の博士にて、万人の師となる事、諸道変るべからず。

現代語訳

天下の名人といわれた人でも、はじめは下手でひどい欠点もあったりしたのです。

しかし、その人がその道の規律を正しく、大切にしていい加減にしなければ、いつしか世間から認められる権威となって、万人の師となるのです。

この事実はどんな道でも変わることがありません。

芸が下手なうちからベテランに交ざって、笑い者になっても苦にすることなく、平常心で頑張っていれば才能や素質などは特に必要ないのです。

芸の道を踏み外すことも無く、我流にもならず、時を経て、要領のいい稽古をあまりしない者を超えて次第にうまくなっていきます。

やがて人間性も向上し、努力が報われ、無双の名人と呼ばれる境地までに至るのです。

名人などと呼ばれる人も、最初は下手だとなじられ、苦しみを味わいます。

しかし、その人が芸の教えを正しく学び、尊重し、自分勝手にならなかったからこそ、万人の師匠となれたのです。

これはどんな世界にも通じる真理なのではないでしょうか。

場数を踏む

世阿弥の言葉に次のようなものがあります。

「上手は下手の手本、下手は上手の手本」です。

これは兼好法師の言葉とは少し違った様相を持っています。

本当に上手な人は、下手な人の良い点や、自分にはない才能を学ぶことができるだけの柔らかさをもっています。

さらに下手な人は、上手な人のやり方を真似るだけでなく、上手な人の弱点や失敗からも学ばなければなりません。

謙虚に学び、努力を怠らないことの重要性を強調しているのです。

長い間、1つのことにずっと関わっていることが大切です。

おそらくこの下手の人が最も大切にしなくてはならない心がけを無意識のうちに実践していくことが最も肝要なのでしょう。

それがもしかすると、能をつかんとする人にとって、最も大切な生き方なのかもしれません。

しかし実践するのは簡単なことではありません。

落語の場合、前座の噺家は楽屋で一日中働きます。

他の上手な人たちの落語を半ばシャワーのように浴び続けるのです。

その間も、先輩が高座で演じる噺に耳を傾けていなければなりません。

俗に「捨て耳」と呼ばれます。

身体の中に落語のエッセンスが染み込ませていく瞬間といったらいいのでしょうか。

三味線や太鼓の音、客席の笑い声、それぞれの噺家が持つ落語の間など、あらゆるものが栄養素として取り込まれていくのです。

真打になるまで、通常は15年かかります。

不思議な時間が堆積されていった結果、身体が自然と噺家のものになっていくのです。

入門した頃には本当にものになるのかと心配された若者が、突然「化ける」ということはあるようです。

芸が飛躍的に向上するのです。

そのためには場数を踏むことが大切です。

失敗することも勉強です。

そこから何を手にするのかが最も大切なのです。

了見という言葉

兼好のこの段を読んでいると、なんとなく説教臭に満ちていても、それはまさにその通りだと感心させられてしまうのは、ここに不思議な芸のからくりがあるからかもしれません。

芸能の道は理屈ではないです。

それだけは確かです。

しかしその芸能を手に入れようとする人の資質に負うものもやはり大きいのです。

「人」(にん)は大切です。

つねに「まともな了見」を持てと呟いたのは先代の五代目柳家小さんでした。

その芸人の持つ資質が、全て登場人物の中に反映されてしまうのです。

兼好法師の文章を読みながら、あらためて芸能の持つ深さを感じました。

おそらくこの真理は、学問、スポーツなどあらゆることに共通しているに違いありません。

もう少し考え続けてみたいです。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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