「細雪・谷崎潤一郎」桜の放つ悠久への夢を非情の時が消し去ってゆく

春の心

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は谷崎潤一郎の小説の話をしたいと思います。

春です。

いよいよ桜の季節がやってきました。

昔からこの花ほど、人の心を揺り動かしたものはないでしょうね。

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

古今和歌集と伊勢物語の第82段「渚の院」に収録されている在原業平(ありわらのなりひら)の歌です。

意味は「せば」と「まし」のセットで使われる反実仮想という古文の文法がカギです。

いわゆる仮定法です。

この世の中に、桜というものがなかったなら、春を過ごす人の心はどんなにのどかであることでしょうかというのです。

いつ咲くのか。

もう咲いたのか。

花びらを散らす雨は降らないだろうか。

強い風は吹かないだろうか。

本当に花が咲いている間も、気が気ではありません。

桜がなければ、もっとゆったりと春を過ごせるはずなのにと、業平は嘆いています。

しかしだから嫌だといっているのではありません。

それくらい人の心を動かす魅惑的な花だ、と賞賛しているのです。

谷崎潤一郎は日本橋の生まれです。

彼は関東大震災を機に関西へ移り住みました。

伝統の日本文化は京阪神の言葉遣いや風景の中にあると信じたからです。

春を彩る桜の風景を背景にして、谷崎は失われていく日本の原風景をみごとに描き出しました。

谷崎の小説

谷崎潤一郎の小説の中でなにが一番好きかと言われたら、やはり『細雪』でしょうね。

『吉野葛』のしっとりした味わいや『蘆刈』もいいです。

『少将滋幹の母』の持つ世界にも惹かれます。

もちろん、『痴人の愛』『春琴抄』なども嫌いではありません。

彼の小説はあまりにも人の心をえぐります。

よく言われるマゾヒズムの持つ熱に侵されてしまうのです。

美意識が過度にありすぎた人なのかと疑ってしまいます。

夫人を三度も取り換えたことや、何十回も転居を繰り返したことなど、ぜひあなた自身で調べてみてください。

友人の佐藤春夫と絶交までした話は有名です。

あまりにも優秀だったため、日比谷高校で飛び級をしたという有名な話もあります。

いずれにしても自分の美のために、あらゆることを過度なまでに追求し続けた作家であることは間違いありません。

oplus_34

ぼくが『細雪』にひかれるのは、この話が滅んでいく一族を追ったものだからです。

船場の資産家の家に生まれた4人の姉妹が、それぞれの人生観に殉じていく様子をこれでもかというくらい、日常の中に落とし込んで描いています。

基本は三女、雪子の見合い話を中心に進みますが、けっしてそれだけではありません。

四女妙子の自立という新しい時代への予感もあります。

さらにその背後には戦争へ突き進む昭和の構図もみえます。

かつて映画監督、市川崑はこの四姉妹の滅びの姿を映画にしました。

そこで使われたのが桜の花の下を歩くシーンです。

『細雪』の中で最も美しく艶やかな場面です。

毎年必ず姉妹で京都の桜を見物するのです。

京都の桜

その部分の叙述を少しだけ書き写してみましょう。

—————————————-

毎年春が来ると、夫や娘や妹たちを誘って京都へ花を見に行くことを、ここ数年来欠かしたことがなかったので、いつからともなくそれが一つの行事のようになっていた。

此の行事には、貞之助と悦子とは仕事や学校の方の都合で欠席したことがあるけれども、幸子、雪子、妙子の三姉妹の顔が揃わなかったことは一度もなく、

幸子としては、散る花を惜しむと共に、妹たちの娘時代を惜しむ心も加わっていたので、来る年毎に、口にこそ出さね、少なくとも雪子と一緒に花を見るのは、今年が最後であるまいかと思い思いした。

——————————————-

されば、彼女たちは、毎年二日目の午後、嵯峨方面から戻って来て、まさに春の日の暮れかかろうとする、最も名残の惜しまれる黄昏の一時を選んで、

半日の行楽にややくたびれた足をひきずりながら、この神苑の花の下をさまよう。

そして、池の汀、橋の袂、路の曲がり角、廻廊の軒先、等にある殆ど一つ一つの桜樹の前に立ち止まって嘆息し、限りなき愛着の情を遣るのであるが、

芦屋の家に帰ってからも。またあくる年の春が来るまで、その一年じゅう、いつでも眼をつぶれば、それらの木々の花の色、枝の姿を、瞼の裡に描き得るのであった。

—————————————-

彼らは毎年、京都の桜を見て回ります。

DSC_1434_TEMP

次女の幸子にとって、花は京都の桜でなければならないのです。

南禅寺で食事をして、祇園の夜桜を見物。

その日の夜は京都に泊まり、あくる日は嵯峨から嵐山へ出向きます。

最後に寄るのが、平安神宮神苑の桜です。

紅しだれ桜と呼ばれています。

ここの桜こそが、京洛の春そのものだと谷崎は信じていました。

醍醐寺や高台寺の紅しだれ桜も確かに美しいのはよくわかります。

しかしこの感覚こそが彼のものだったのでしょう。

満開の時、ここを訪れるのは、なかなかに至難です。

ただしここの池にうつる桜を一度みたら、やはり谷崎の審美眼に敬服するはずです。

ぼく自身、満開の時に訪れることができたのは一度だけでした。

しかし今だに、あの時の風景が脳裡に浮かびます。

紅しだれ桜はソメイヨシノなどと比べると、色が濃いですね。

斑鳩の法隆寺に映える参道の桜とはまったく趣きが違います。

奈良には奈良固有の枯淡の味わいがあります。

しかし京都は、平安のおおどかな風情に満ちているのです。

人は哀しき

1人1人の人間が持つ時間は限られています。

それだけに毎年、一度だけ咲く桜の美に酔いしれるということの意味が、この小説には溢れているのです。

来年の春もまたこの花を見られますようにと、みなが満開の中で念じます。

幸子はこの花の下に立つ頃、三女の雪子が嫁にいき、四女の妙子はどうなるのかが心配になるのです。

事実、妙子はカメラマンと別れ、その後バーテンダーの男と生活を始めます。

やがて子供を身籠るのです。

長女の鶴子は養子の夫に従い東京へ転勤していきます。

実家の衰退にともなって、それぞれの人生が目まぐるしく変化していくのです。

それが人の世というものなのでしょう。

年々歳々花相似たり
歳々年々人同じからず

この言葉もさらに深く読み込めば、けっして花も同じではないことがよくわかります。

しかし人間の変化に比べれば、僅かなものにもみえます。

四季を彩る花の記憶と人の姿を実にみごとな会話でつなぎあわせ、美しい四姉妹の生きていく姿に重ね合わせた小説が『細雪』なのです。

「ささめゆき」とは降ってすぐに消えてしまうはかない雪の譬えです。

まさに人の生きざまを象徴しているかのような気さえしますね。

人の姿と桜の花との重なりが、これほどみごとに描かれた小説はありません。

『源氏物語』とよく比べられたりもします。

紫上を髣髴とさせる雪子。

浮舟を現代によみがえらせた妙子。

どのように読むことも可能です。

青空文庫にも所収されていますので無料でも読めます。

ぜひ、ご一読を勧めます。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


 

タイトルとURLをコピーしました