【鎧の袖・増鏡】朝廷から武家へ権力が移る時代の歴史物語【承久の変】

鎧の袖

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は鏡ものと呼ばれる歴史書の中の1冊、『増鏡』を取り上げます。

成立年ははっきりわかっていません。

治承4年(1180)の後鳥羽天皇の誕生から始まっています。

元弘3年(1333)の後醍醐天皇が、流されていた隠岐から京都へ戻るまでの約150年の歴史を編年体で記しているのです。

歴史上の資料としても大変重要なものです。

承久3年(1221)、後鳥羽上皇は鎌倉幕府を討伐するために挙兵しました。

いわゆる承久の乱がそれです。

日本史の授業で習ったことと思います。

執権北条義時は、弟時房と、長男泰時を都に派遣して鎮圧しようとしました。

それに対して上皇が決起したのです。

承久3年(1221)、後鳥羽上皇は「流鏑馬ぞろい」と称して集めた諸国の武士1700人あまりに対して,執権、北條義時を討てという命じました。

武士たちはとまどったものの、その多くが上皇方についたのです。

同時に幕府と親しかった貴族、西園寺公経・実氏親子を捕らえました。

京都にいたご家人中ただ一人上皇の命令を拒否した、京都守護の伊賀光季の館をおそう命令を出しました。

伊賀光季の館は翌15日に襲われ,光季親子は勇敢に戦いますが昼過ぎに討たれて死んだのです。

頼朝が死に、頼家と実朝が暗殺されたのを知った上皇は、幕府内部で有力ご家人同士が争うに違いないと判断しました。

特に北条氏と三浦氏の実権争いは、かねてより上皇も知っていたのです。

ひとたび命令を出せば,日本中の武士が集まってくるに違いない。

上皇はそう思い込んでいました。

本文

さても院の思し構ふる事、忍ぶとすれど、やうやう漏れ聞こえて、東(ひんがし)ざまにも、その心遣ひすべかんめり。

東(あづま)の代官にて伊賀の判官光季(みつすゑ)と言ふ者あり。

かつがつかれを御勘事(かうじ)の由仰せらるれば、御方に参る兵(つはもの)ども押し寄せたるに、逃がるべきやうなくて、腹切りてけり。

先づいとめでたしとぞ、院は思し召しける。

東にも、いみじうあわて騒ぐ。

さるべくて身の失すべき時にこそあんなれと思ふものから、討手(うつて)の攻め来たりなん時に、はかなき様にて屍かばねを晒さじ、

朝廷(おほやけ)と聞こゆとも、みづからし給ふ事ならねば、かつ我が身の宿世(しゆくせ)をも見るばかりと思ひなりて、

弟の時房と泰時と言ふ一男と、二人を頭として、雲霞の兵をたなびかせて、都に上す。

泰時を前に据ゑて言ふやう、「おのれをこの度都に参まゐらする事は、思ふところ多し。本意の如くよき死にをすべし。

人に後ろ見えなんには、親の顔、また見るべからず。今を限りと思へ。

賎しけれども、義時、君の御ために後ろめたき心やはある。

されば、横ざまの死にをせんことはあるべからず。心を猛く思へ。

おのれうち勝つならば、ふたたび足柄・箱根山は越ゆべし」など、泣く泣く言ひ聞かす。

まことにしかなり、また親の顔拝をがむこともいと危うしと思ひて、泰時も鎧の袖を絞る。
かたみに、今や限りと哀れに心細げなり。

現代語訳

さてこれは後鳥羽院がお考えになられていたことです。

しきりに隠そうとなさいましたが、徐々に漏れ聞こえて、鎌倉幕府にも、十分に用心しなければなりませんでした。

鎌倉の代官で伊賀判官光季という者がおりました。

急ぎ光季を都から排除するよう命じた時、光季の宿所に兵たちが押し寄せたのです。

光季は逃げることもできずに、切腹しました

先ずはこれでよしと、後鳥羽院はお思いになられたのです。

東国でも、大騒ぎでした。

「なるべくして身を失する時であったのであろう」と思う者もあれば、

「討手が攻めて来ても、はかなく屍を晒すものではない、

たとえ敵が公であっても、身に覚えのないことならば、我が身の因縁と思う外ない」と思って、

北条義時は弟の時房と嫡男泰時と申す二人を先頭に、雲霞の如くの兵たちを引き連れて、都に上らせたのです。

義時が泰時を御前にすわらせて申すには、「お前をこの度都に上らせるにあたり、申しておくことが多くある。本意に従って清く死ぬべき時だぞ。

人に背中を見せることあれば、親の顔を、再び見ることはないと思え。

今を限りと戦うのだ。

わたしも本当のところ、お前を上らせたくはない。

だから、せめて無様な死に様はするな。心を強く持てよ。

己に打ち勝つことができたなら、再びこの足柄山、箱根山を越えることができよう」などと、泣く泣く言い聞かせたのです。

「もっともなことだ。再び親の顔を拝むことも叶わぬかも知れない」と思って、泰時も鎧の袖を絞りました。

今を限りと思えば悲しくて心細く思われたのに違いありません。

承久の変

承久の乱は、後鳥羽上皇が再び上皇中心の政治を取り戻そうとして、鎌倉幕府を討ち滅ぼすために起こした戦いです。

上皇にとって鎌倉幕府の存在は目障りでした。

院政が敷かれていたころのような朝廷の権力を、取り戻したかったのです。

そこで上皇は、三代将軍源実朝に接近します。

また鎌倉幕府内部の権力争いを横目で見ながら、領地の拡大、軍事力の強化もはかりました。

分散していた天皇領もまとめました。

次第に資金力を確保し、武士集団をつくりあげます。

さらに鎌倉幕府が進める荘園政策にも反対しました。

荘園こそが重要な収入源だったからです。

ところが、各荘園に地頭を配置したため、寄進が急激に減ってしまいました。

鎌倉幕府に対する不快感が日ごとに増していったのです。

こうした理由から、上皇は北条氏を排除したいと考えるようになりました。

1219年、源実朝が公暁によって暗殺されたのです。

後鳥羽上皇は、この幕府内の混乱に乗じて、御家人同士が争い始めるのを待っていました。

朝廷の権力が復活すると目論んだのです。

しかし現実はそれほどに甘いものではありませんでした。

時代は既に朝廷のものではなくなっていたのです。

まさに武士の世の中でした。

今回の「鎧の袖」はそのあたりの状況をみごとに活写したものです。

権力の持つ魔性が描かれています。

じっくりと読んでみてください。

後鳥羽上皇の心の内側が透けて見えるようです。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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