【波打ち際に生きる・松浦寿輝】境界だけが持つ不安定で甘えに満ちた魅力

波打ち際に生きる

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は詩人で小説家の松浦寿輝氏のエッセイを読みます。

一種の境界論です。

あなたは「マージナルマン」という言葉をご存知ですか。

わかりやすくいえば、境界線上にいる人のことです。

どちらの集団にも完全には所属していないで、それぞれの集団の境界を漂っている人のことを言います。

文化的な意味で使われることが多い表現です。

境界線上は、限りなく不安定であることは事実です。

しかし同時に自由なスタンスで、あらゆることに向かうことができる可能性を孕んでいます。

それが唯一の長所です。

「オン・ザ・エッジ」という名前を聞いたことがありませんか。

あの堀江貴文氏がかつて創業したIT関連の会社です。

まさに鋭い刃の上を歩くという意味です。

働き方にも使ったりしますね。

正規と非正規の間にある労働もその1つです。

自身がエンタテイメントの側に所属しながら、同時にフリーとしての活動も行う。

文化の異なる複数の集団に属する場合も同様です。

そのいずれにも完全には所属せずに、それぞれの集団の境界にいる人のことをそう呼ぶのです。

小説家や詩人というのは、基本的に所属することを嫌います。

感性を縛るものに対して、非常に鋭敏ですね。

心もとないよるべなさ

文中に出てくる「波打ち際」という表現は、まさに「心もとないよるべなさ」を感じる創作の原点を示しているようです。

「よるべない」というのは身を寄せるところのない頼りなさをいいます。

自分が望んだ位置でありながら、やはり本来的に所属を好む人間の弱さを示しています。

筆者の詩作、文学評論、映画評論などを読むチャンスがあったら、ぜひその微妙な感覚を味わってください。

小説では『花腐し』(はなくたし)という作品で芥川賞を受賞しました。

今年の初冬には映画が公開される予定です。

荒井晴彦監督の作品です。

主演が綾野剛、共演に柄本佑、さとうほなみなどが名を連ねています。

廃れていく映画業界で生きる映画監督と脚本家志望だった男、そして2人が愛したひとりの女優が主な登場人物です。

梅雨のある日に出会った2人の男は、自分たちの愛した女について語り始めるのです。

不思議な味わいの作品が期待できそうですね。

今回、このサイトでは松浦寿輝氏の持つ独特な境界へのこだわりを読み解きます。

波打ち際というトポスという言葉が最初にでてきますが、意味を理解できるでしょうか。

「トポス」という表現は、哲学的な論文やエッセイなどによく登場しますね。

ギリシア語で「場所」を意味します。

論点に関係した事柄や話題を発見すべき場所をあらわすのです。

頻出語ですので、チェックしておきましょう。

内容はまさに境界の持つ魅力と不安感です。

本文

波打ち際というトポスの特性について考えてみます。

波打ち際とはいったい何なのか。

それは3つの特質に要約されるように思います。

まず1つは それが境界領域であるということです。

波打ち際の境界線は絶えず移動します。

波が打ち寄せてきてはまた引いてゆくたびごとに、波打ち際は絶えずずれていき、それを一つの定まった線の形で確定することはできません。

もちろん潮の満ち干もあります。

そうした不安定さ、不確定さ、不分明さ、これが波打ち際の第一の特性です。

もう一つは心もとなさやよるべなさの感覚と関係してきますが、波打ち際とは存在が海に向かって露出される場であるということです。

人間のように肺呼吸をする哺乳類の生き物は、水の中では生きていけませんから、我々が眼前にしている海とは、外界であり異界であり、ともかく自分が自分でなくなるかもしれない何か危険な場所です。

波打ち際に立つとは、そうした異界のへりに露出されるということなのです。

とはいえ、我々の背後には、そうした危険から存在を庇護してくれる後背地の陸がある。

いざとなれば安全な内陸にいつでも退避できるという、一種の安心感や甘えもある。

露出と庇護とのパラドクサルな共存とでもいうのか、露出されて在ることと庇護されて在ることとの甘美な葛藤とでもいったもの、これが波打ち際の第2の特性だと思います。

そこには、外部にさらされている者の緊張感と、内部によって守られている者の安息とが同時にあるということです。

最後の第3の特性は、それが予感、畏怖、誘惑の場であるということです。

つまり、それは他社の到来を迎える場なのです。

異界としての海にはいろいろなものが潜んでいる。

打ち寄せてくる波に乗って、何やら怪物的な脅威でもあるかもしれない他者が、いつ何どき、そこから訪れてくるかもしれない。

そうした怯えとともにわたしは波打ち際に立っている。

しかし、それは同時にまた、私を怯えさせる脅威であるよりはむしろ、私を魅惑してやまない何か、むしろ 官能的な快楽の対象たりうる、喜ばしい何かであるかもしれません。

外界の彼方に潜む官能的な対象からの呼びかけに魅了されるといったことも起こらないではない。

波打ち際の要素

「波打ち際」はあくまでも例としての表現です。

もっと強く言い切ってしまえば、「境界」そのものです。

海が怖いのは、そこに死の予感があるからです。

人間は水の中で呼吸ができません。

つまり境界から一歩海の側に入れば、死を意味します。

文中に示された3つの要素をは何でしょうか。

➀不安定さ、不確定さ、不分明さ。
②外部にさらされている者の緊張感と、内部に守られている者の安息。
③予感、畏怖、誘惑の場

設問はいくつか作れますね。

例えば、なぜ波打ち際でわたしたちはよるべなさを感じるのかということです。

解答はまさに3つの要素の中で➀を強調すればいいと思われます。

わかりやすく言えば、海と陸との境界上には「死」があるということです。

危険な異界のへりに露出されることで、自分が自分でなくなります。

しかしそれだけではありません。

波打ち際には恍惚もあります。

筆者にとって、そこは打ち寄せてくる映像と音響の波動が存在する場でもありました。

映画の評論を多く書いている松浦氏にとって、不思議な魅力に満ちていたのでしょう。

陸と海が交わる場所であり、危機と恍惚のアンビブァレンツに惹かれる場所と形容しています。

この表現も評論文ではよく使われます。

アンビバレンツと日本語的に書かれることもあります。

愛情と僧悪、独立と依存というように、まったく正反対の感情を同時に持つ心理状態のことです。

それだけの魅力に満ちた場所という理解で十分です。

幾つかの重要語句も出現しています。

きちんと理解をしておいてください。

頻出語はそのたびに調べて、インプットすることをお勧めします。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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