全国学力調査
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
最近、全国学力調査という言葉をよく耳にする機会が増えました。
学習状況の調査を目的として国が行う学力テストのことです。
日本全国の小学校、中学校で、最高学年だけを対象にしています。
この試験は後に採点結果が公表されますね。
県や地区によっての得点差などがいつも話題になります。
各県の教育委員会にとっては、結果が非常に気になるようです。
今年度もつい数日前に行われました。
新聞にその問題が掲載されています。
大学学力共通テストが実施されてから、問題の作り方も大きく変化してきました。
文章を読ませ、その場で考える力を問うという国語の試験には、以前なかった対話形式のものなども登場しています。
グローバル社会の中で、きちんと自分の主張を発表できる人間を育てるという目標が次第に浸透しつつある印象です。
もう1問はごくオーソドックスな問題でした。
「本の読み方」というテーマを扱った文章が2つ設定され、その後に設問がある形式です。
実にオーソドックスなものでした。
ネット全盛の時代に、活字文化に関する設問は大きな意味を持ちます。
いざとなれば、全てをPCやスマホに頼ってしまう時代です。
情報と教養との差がみえなくなっているのです。
その意味で、問題文になった文章にはいろいろと考えさせられるものがありました。
今回はその内容をここに示しながら、小論文の問題にしてみようと思います。
このような内容の文章を、どう扱っていけばいいのかについて考えてみたいのです。
出典は2題。
哲学者、岸見一郎氏「本をどう読むか」と、評論家、小林秀雄氏「読書について」です。
岸見一郎氏の文章
前に読んだ本でも初めて読むような気がするのは、何が書いてあったかを忘れてしまったからではありません。
本の場合はたしかに書いてあることは同じなのですが、それでも自分は前に読んだ時とは違っているので、同じ本でも同じように読むことはできません。
前に読んだ時には読み落としていたり、あるいは、あまり強い印象を残さなかった箇所があることに気がつきます。
印刷されている文字は同じでも、前と同じ本を読んでいるのではないといっていいくらいです。
以前より必ず成長しなければならないわけではありませんが、今の自分が前に読んだ時とは違うと感じられるというのも読書の楽しみの一つだと思います。
小林秀雄氏の文章
ある作家の全集を読むのは非常にいいことだ。
研究でもしようというのでなければ、そんなことは全く無駄事だと思われるがちだが、決してそうではない。
読書の楽しみの源泉にはいつも「文は人なり」という言葉があるのだが、この言葉の深い意味を了解するのには、全集を読むのが、一番手っ取り早いしかも確実な方法なのである。
一流の作家なら誰でもいい、好きな作家でよい。
あんまり多作の人は厄介だから、手頃なのを一人選べばよい。
その人の全集を、日記や書簡の類に至るまで、隅から隅まで読んでみるのだ。
そうすると、一流と言われる人物は、どんなに色々なことを試み、いろいろなことを考えていたかが解る。
彼の代表作などと呼ばれているものが、彼の考えていたどんなに沢山の思想を犠牲にした結果、生まれたものであるかが納得出来る。
単純に考えていたその作家の姿などはこの人にこんな言葉があったのか、こんな思想があったのかという驚きで、滅茶滅茶になってしまうであろう。
その作家の性格とか、個性とかいうものは、もはや表面のところに判然と見えるというようなものではなく、いよいよ奥の方の深い小暗いところに、手探りで捜さねばならぬもののように思われて来るだろう。
僕は、理屈を述べるのではなく、経験を話すのだが、そうして手探りをしているうちに、作者にめぐり会うのであって、誰かの紹介などによって相手を知るのではない。
こうして、小暗いところで、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握ったという具合な解り方をしてしまうと、その作家の傑作とか失敗作とかいうような区別も、別段大した意味を持たなくなる、と言うより、ほんの片言隻句にも、その作家の人間全部が感じられるというようになる。
これが「文は人なり」という言葉の真意だ。
それは、文は眼の前にあり、人は奥の方にいる、という意味だ。
どの立場から書くか
今まであまり読書の問題を小論文で扱うことはありませんでした。
全く出題されていないワケではありません。
どの立場から書くのかによって、かなり文章が割れ、評価をするのが難しいということもあるのでしょう。
本の感想ということなら、いくらでも書けます。
しかし、本を読むということの深層にまで達する文章を論理的にまとめるということになると、なかなか難しいのです。
そこで、このようなテーマの場合、ある角度から書かせるということになるようです。
そういう意味で言うと、両者の文章は、いいポイントをついていると思われます。
読むたびに、心に残る場所が違うという岸見市の意見には、かなりの人が賛同するのではないでしょうか。
また作者にめぐりあうとはどういうことかという小林氏の論点は、通常の書き方とは少し違います。
とくに同じ作家の全集に目を通すことで、その書き手の奥深いところに達する方法を論じようとしている点がユニークですね。
このようなテーマを扱う時、どこから書き出せばいいのか。
最初にするべきことはキーワードを探すことです。
それ以外にいい方法はありません。
この2つの参考文の内容に1番共感したのはどの部分ですか。
似たような経験があなたにありますか。
その時に、何を感じたのか。
そこまで追いかけていくといいでしょう。
全集を読むという経験
最近の読書の傾向として、全集を全て読むという人がどれくらいいるのでしょうか。
当然、文中に自分の好きな作家の名前が具体的にでてくる場合もあると思います。
ただし、高校、大学の入試問題として扱われるという前提で考えてみてください。
ある程度の評価が定まった作家をイメージした方が無難ですね。
いわゆるライトノベルの類を扱うことはやめておいた方がいいでしょう。
採点者の年齢や経歴もあわせて想像してください。
小論文の場合、どのように人間は生きていけばいいのかといった哲学的な内容を扱うのが普通です。
それだけに人生の深淵を覗くような内容を、書き込んだ作品を念頭におくのはどうでしょうか。
教科書で偶然知った作家でもかまいません。
しかし生半可なことならば、書かない方がいいです。
かえって足元を見られます。
自分がこれならば最後まで書き切ることができるという自信がないのなら、やめた方がいいと思います。
小林秀雄氏の文でいうなら、「彼の代表作などと呼ばれているものが、彼の考えていたどんなに沢山の思想を犠牲にした結果、生まれたものであるかが納得出来る。」という表現は重いです。
あなたにはそういう読書の経験がありますか。
ないとしたらなぜないのでしょうか。
1人の作家を、そこまで読み込んでこなかったという理由は何かということです。
今までにそのように深く読み込んだことがないとしたら、これからどういう方向に切り替えたらいいのか。
あるいは今までと同じでいいのか。
作家の人生に自分自身をそこまで重ねなかったのには、それなりの考えがあったからでしょう。
その理由を書いていくというのも1つの方向性です。
いろいろなアプローチが考えられますね。
単純に筆者の後を追いかけてはいけません。
自分はどのようだったのか。
これからどうしていきたいのか。
その方向性を明確に示してください。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。