嘆きつつ
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は『蜻蛉日記』をとりあげましょう。
成立は天延3年(975年)前後と推定されています。
日記文学の中でも特異な位置を占める作品です。
筆者は藤原道綱母です。
天暦8年(954)、作者が19才の頃、時の権勢家、藤原北家の貴公子兼家から求婚を受けます。
兼家からはたえず手紙が届けられ、ついにその秋結婚したのです。
翌年の8月末、二人の間には男児(道綱)が生まれました。
自分の子供の名前しか残されていないというところに、当時の女性の地位がよく表れていますね。
夫である藤原兼家は、平安時代中期の公卿です。
従一位、摂政、関白、太政大臣にまで昇り詰めた人です。
策略によって花山天皇を退位させ、娘が生んだ一条天皇を即位させて摂政となったのです。
その後自らの地位を飛躍的に高め、また子・道隆にその地位を譲って世襲を固めました。
まさに時代が彼を最も高い地位へと昇らせたのです。
当然のことながら、女性関係も派手でした。
『蜻蛉日記』の作者もその中の1人というワケです。
結婚生活の様子も描いていますが、つねに兼家の別の妻である時姫(藤原道長の母)との競争に心を砕きました。
さらには夫の女性関係についても書いています。
上流貴族との交際の様子や、母の死による孤独、さらに息子藤原道綱の成長や結婚の様子までが次々と表現されているのです。
亡くなったのは60歳少し前でした。
日記は39歳の大晦日を最後に途絶えています。
その当時、何があったのでしょうか。
歌人との交流についても書いており、掲載の和歌は261首もあります。
その中でも最も有名なのが、今回の段に出てくる次の歌です。
嘆きつつひとりぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る
百人一首にとられているので、知っている人も多いことでしょう。
女流日記の中では先駆的な役割を果たしました。
『源氏物語』はじめとした多くの作品に影響を与えています。
今回は最も有名な章段を勉強しましょう。
本文
さて、九月(ながつき)ばかりになりて、出でにたるほどに、箱のあるを、手まさぐりに開けてみれば、 人のもとにやらむとしける文あり。
あさましさに見てけりとだに知られむと思ひて、書きつく。
うたがはし ほかに渡せる ふみ見れば ここやとだえに ならむとすらん
など思ふほどに、むべなう、十月つごもり方に、三夜しきりて見えぬときあり。
つれなうて、「しばし試みるほどに。」など気色あり。
これより、夕さりつ方、「内裏に、逃るまじかりけり。」とて出づるに、心得で、人をつけて見すれば、「町小路なるそこそこになむ、止まりたまひぬる。」とて来たり。
さればよと、いみじう心憂しと思へども、言はむやうも知らであるほどに、二、三日ばかりありて、暁方に、門をたたくときあり。
さなめりと思ふに、憂くて開けさせねば、例の家とおぼしきところにものしたり。
つとめて、なほもあらじと思ひて、
嘆きつつ ひとり寝(ぬ)る夜の あくる間は いかに久しき ものとかは知る
と、例よりはひき繕ひて書きて、移ろひたる菊に挿したり。
返り言、「あくるまでも試みむとしつれど、とみなる召し使ひの、来合ひたりつればなむ。いと理(ことわり)なりつるは。
げにやげに 冬の夜ならぬ まきの戸も おそくあくるは わびしかりけり
さても、いとあやしかりつるほどに、ことなしびたり。
しばしは、忍びたるさまに、「内裏に。」など言ひつつぞあるべきを、
いとどしう心づきなく思ふことぞ限りなきや。
現代語訳
さて、九月ごろになって、夫の兼家が出て行ってしまった時に、文箱があるのを手慰みに開けて見ると、他の女性のもとに届けようとした手紙があったのです。
意外なことだとあきれて見てしまったということだけでも、夫に知られるようにと思って、書きつけました。
疑わしいことです。他の女性に送る手紙を見ると、ここへあなたが訪れることは、途絶えようとしているのでしょうか。
などと思ううちに、思った通り、十月の末ごろに三晩続けて来ないときがあったのです。
夫は素知らぬ顔で、「しばらくあなたの気持ちを試しているうちに。」などというそぶりをみせるのです。
私のところから、夕方ごろ、「宮中に断れそうにない用事があるのだ。」と夫は出かけようとするのです。
私は到底納得ができず、あやしいと思って、召し使いの者をつけさせると、「町の小路にあるどこそこに、お止まりになりました。」と言って帰って来ました。
思った通りだと、たいそう嘆かわしいと思うけれども、言いようも分からないでいるうちに、二、三日ほどして、ふたたび明け方に門をたたくときがありました。
夫が訪ねて来たようだと思うと、気分が悪くなって門を開けさせないでいると、結局例の町の小路の別の女の家かと思われるところに行ってしまいました。
翌朝、そのままにしてはおくまいと決心して、
嘆きながら一人で寝る夜が明けるまでの間は、どんなに長いものか分かりますか。
あなたなんかに分かるはずがないでしょうね。
と、いつもよりは注意を払って書いて、色あせた菊に挿して手紙を送りつけました。
返事は、「夜が明けるまで待とうと試みたけれども、急用の召使の者が、来合わせたので。あなたのお怒りももっともなことです。
まことにまことに、冬の夜はなかなか明けないものですが、冬の夜ではない真木の戸も遅く開くのを待つのはつらいことなのですよ。」
それにしても、たいそう不思議なほど、夫は何気ないふりをしているのです。
しばらくは、他の女のもとに通うのを隠している様子で、「宮中に」などと言っているべきだと思うのに、ますます激しく不愉快に思うことばかりなのです。
微妙な精神状態
『蜻蛉日記』の面白さは、なんといっても自分の心理状態を、彼女が実に的確に描いているところにあります。
小説家の目ですね。
やっと訪ねてきた夫を家に入れずに、日ごろの鬱憤を晴らそうとします。
もちろん、来てくれるのは嬉しいのです。
しかしそれをストレートに表現するようなタイプの女性ではありません。
そこに嫉妬をはじめとした複雑な感情が絡みます。
だからこそ、家に入れようとはしません。
門を閉ざしたままなのです。
そしてあなたがいない独り寝の夜がどれほど長く感じるのか、あなたにわかるはずがないですよね、という強い調子の歌を詠みます。
当然、夫は別の女性のところへ行ってしまいます。
それでもやはり許せないのです。
その後、なんにもなかったような顔をして、夫がやってきます。
あの時はいろいろ急な用事もあって、それどころじゃなかったんだよという夫の言い訳が不愉快千万というところでしょうか。
女性の立場があまりにも弱いということが、よくわかりますね。
しかしちょっと視点をかえてみると、現代にもこうした構図がないワケではありません。
ほとんど変わっていないということに、驚きさえ感じます。
小説を読んでいるような気がするのは、ぼくだけでしょうか。
実に生々しい描写力です。
門を閉めて家に入れずに、夫がどこへ向かうのかを探らせる女性の心理状態を考えると、怖いです。
『蜻蛉日記』は明らかに、この後に続く多くの物語文学に影響を与えました。
紫式部などは真剣に読んだでしょうね。
百人一首にとられた歌は必ず覚えておいてください。
実感のこもった重い歌です。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。