自分らしさ
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は現代の思潮をテーマに考えてみます。
この内容はさまざまな論点から切り込めます。
小論文のテーマとしても恰好のものです。
個人のニーズを商品化する企業の問題としても扱えます。
また「自分らしさ」とは何かという個性の問題にもなります。
さらに深めれば、アイデンティティーの喪失と現代をも論じることができます。
筆者は政治学者、宇野重規氏です。
高校の現代文の教科書に所収されています。
実際の文章は大変長いので、最初のところだけをピックアップしました。
全体の内容は大変複雑で、ここで全てを解説することはできません。
多岐にわたっています。
来年度、高校2年生になる人は、おそらく選択授業で「論理国語」を履修すねることになるでしょう。
週のうち、4時間は評論などのかたい文章を読むことになると思われます。
今まで以上に難しい論理的な語彙を必要とします。
わからない時はすぐにネットで検索する習慣を身につけてください。
わからないままにしないこと。
これが日本語の語彙を増やすための基本です。
それでは本文を読みましょう。
最もストレートに頭に入ってくる部分を掲載しています。
その意味で理解しやすいと思われます。
本文
商品のコマーシャルはストレートです。
「自由であれ」(Be free)「あなたらしくあれ」(Be Yourself)というフレーズは、現代の宣伝において常套句の最たるものです。
しかしながら、ある意味で矛盾しているのは、このように呼びかけるコマーシャルが「あなたらしくあれ」と言いながら、その上で「うちの会社の商品を買いなさい」と迫ってくることです。
どうやら現代の洗練された市場において、商品化の論理は「自分らしさ」さえも商品にしてしまったようです。
いや、むしろ最有力商品というべきでしょう。
消費者の「自分らしさ」意識を満足させるための商品が、次から次へと生み出されています。
とはいえ、それらは綿密な市場調査によって割り出された、類型化された「自分らしさ」にほかなりません。
「あなたらしさを演出する、定番アイテム」などという吊り広告を見ると、なんともいえない気分になります。
思えば、「私」が「私」であること、「私」らしくあることは、現代において、とても魅力のあることであると同時に、少々つらいことなのかもしれません。
私たちは、日々「私」らしくあることを求められます。
「あなたの個性は何か」「あなたは他の人とどこが違っているのか。」という声が、私たちに投げかけられます。
「あなたらしい選択を」といわれることも日常茶飯事です。
「私らしさっていわれても、それが何なのか、もう少し考えてみないとわからない」なんて、口よどんでいる暇はありません。(中略)
いまや「ソーシャル・スキル」の時代です。
人間関係は、一人ひとりの個人が「スキル(技術)」によってつくりだし、維持していかなければならないとされます。
「社会関係資本」といういい方もなされるようになりました。
今日、人と人とのつながりは、個人にとって財産であり、資本なのです。
逆にいえば、自覚的に関係をつくらない限り、人は孤独に陥らざるをえません。
ここには「伝統的な人間関係の束縛からいかに個人を解放するか」という、近代のはじめの命題は見る陰もありません。時代は変わったのです。(中略)
「近代」のもう一つの目標は、宗教からの解放でした。
「聖なるもの」が一つひとつ失われていったのが「近代」という時代です。
ある意味で「私」がこのように強調される現代とは、そのような「近代」の行き着いた時代なのかもしれません。
なぜなら、あらゆる「聖なるもの」が見失われてしまった現代において、価値とされるものは、もはや「私」しかないからです。
ソーシャルスキル
この課題文を読んで、小論文を800字書くことをイメージしてください。
あなたの感じたこと、考えたことをです。
当然体験、経験を含みます。
それがなければ、それこそ「あなたらしさ」がありません。
大幅な減点を余儀なくされるでしょう。
キーワードを集めます。
何が最初に目につきましたか。
基本のテーマは自分らしさとは何かということです。
それを支えるのが「ソーシャル・スキル」です。
人と人との関係を自覚的に作り上げなければ、人は孤独に陥ると言っています。
さらに「聖なるもの」の喪失です。
そのため、価値は「自分」「私」の中にしかありません。
あなたを超えるものの存在が喪失してしまったのです。
近代の価値はつまり「個人」のなかにしかありません。
それを実感したことがありますか。
その経験は貴重ですね。
なかったら、どういう場合が考えれるかという想像力を働かせることも可能です。
反論は可能か
筆者の論点に対して、反論は可能でしょうか。
こういう正面きって、攻めてくるタイプの論点に対して、反論するのはなかなか難しいです。
確かに「私らしくあること」を求められている実感は誰にもあるはずです。
個性的であれと言われつつ、しかし多くの人が似たようなパターンに陥っていくプロセスも見ています。
そこから抜け出ることは容易ではありません。
だからといって、情報を遮断することは不可能です。
自分の個性を一方で求めつつ、企業の論理に取り込まれていくことの矛盾をどう捉えるのか。
それを仕方のないものだとするか、あるいは、それでもなお、自分を追及していくべきなのか。
その両者のはざまをと苦悩をそのまま描いていけば、かなり真実味のある文章になるのではないでしょうか。
それはしょうがないことだと簡単に納得してしまうのではなく、それでもなお、自分というものを探していく可能性に期待する。
そういう狭間での苦しさをそのまま直視してください。
筆者の論点にすぐ同調するのではなく、筆者がなぜここまでこのテーマを追いかけているのか。
その心理に追いつくのです。
そうすることによって、問題の持つ現代特有の困難さと可能性が見えてくるのではないでしょうか。
資本の論理は巧妙です。
その網をかいくぐって、生きていく底力をいかに得るのか。
そこにこの小論文の可能性が宿っているのではないでしょうか。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。