詩人の感性
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は詩人の持つ感性に触れてみましょう。
鋭い視線が日常の中に投げ込まれた時、そこに全く別の世界があらわれます。
残念ながら、ぼくは授業で扱ったことはありません。
このエッセイが載った教科書を使っていなかったからです。
しかしどこまでこの作品に迫れたか、と考えるとあまり自信がありません。
通り一遍の解釈で終えてしまったような気もします。
大修館書店は今回の指導要領改訂に際して、この随筆を1年生用の「言語文化」の教科書に所収しています。
正直に言うと、ぼく自身、「文学国語」という言葉にも抵抗があります。
元々、国語という科目を「論理国語」と「文学国語」などと分けられるものなのでしょうか。
生徒の持つ柔らかな感性の中に突き刺さる言葉なら、全て国語の領域であると思います。
詩人の持つ言葉の感覚は独特なものです。
それを本来なら、あらゆるチャンスに学んで欲しいのです。
彼女自身、高校の国語の可能性について次のように書いています。
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高校の国語の理想は、将来的に文学を選ぶことのない生徒にも、文学を選ぶ生徒にも、いずれにとっても、なにかしら胸に響く体験を生じさせることだろう。
もやもやしたところを残す作品は、じつのところ、もやもや自体に意味がある。
それは払拭してはならない点だ。
というのは、大人になって生きていく社会は、もやもやだらけなのだから。
なんなのだろうと思いながら読んでみること、意味らしい意味を引き出せないことにすら、意味がある。
人の心は複雑なものだ。
AIの研究と活用がさらに進んでも、人の心の複雑さに完全に追いつくことはできないだろう。
その複雑さが具体的に花開く場が文学の場であり、人はそれを味わい、楽しむことができる。
それは、もやもやも、矛盾も、投げ入れることのできる場だ。
短絡的な思考に陥らない道を伝える場にもできるだろう。
そんな体験の可能性を大いに秘めた場を、高校の科目から追い出すことはしないほうがよいと思う。
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この文章には、言葉を扱う人間が抱えている表現への怖れがあります。
何を論じたいのか
最初にこの文章を読んだのはもう5年ほど前です。
何を論じようとしているのだろうと考えました。
言葉の1つ1つが新鮮でしたね。
誰もが知っているごく普通の表現が重なっているにすぎません。
しかし、そこで述べようとしている内容は深いです。
だからこそ詩人だなと納得させられます。
きっと普通の人にはみえない風景がそこにあるのでしょうね。
虹という漢字に雄と雌があるということは、少し勉強をした人なら承知していることなのかもしれません。
しかし彼女はそこから考えを深めていきます。
具体的にどのような文章なのか。
1部をここに掲載します。
途中、省略した部分もあります。
ご容赦ください。
筆者のプロフィールを簡単に紹介しておきます。
蜂飼 耳(はちかい みみ)。
本名です。
詩集に『現代詩文庫・蜂飼耳詩集』『顔をあらう水』(鮎川信夫賞)、文集に『空席日誌』
『おいしそうな草』、書評集に『朝毎読』などがあります。
その他、『方丈記』などの現代語訳もしています。
虹の雌雄
「昨日虹が出ましたね」
いわれて、返事に詰まったことがある。
そうですか、気づかなかったです。
小さく呟くほかなかった。
残念という気持ちが、むくり、むくりと雲のように育ち始める。
大事なものを催し物を見逃したのだ。
「ずいぶん大きくかかっていたの」
相手は、めずらしい植物の栽培にでも成功したかのように誇らしげな表情を浮かべた。
(中略)
虹には、雄雌の区別がある。
といっても、たとえばいちょうに雄株と雌株があるというのとは次元が異なり、あくまでも空想上の区別だ。
漢和辞典のなかに、棲んでいる。(ただし、雌の方はあまり小さな漢和辞典には棲んでいない)
いまの日本語で「にじ」を漢字表記するときに使う「虹」の字は、雄だ。
雌は「蜺」と表す。
虫偏であることを考えても、古代の中国では長々と這う生き物が想像されていたようだ。
日本では、いつのまにか雄の文字の方に代表されるようになり、「にじ」といえば、まず「虹」の字が書かれる。
雄の方は、辞典の中でのんびり休んでいる。(中略)
宮沢賢治の詩に「報告」という二行の詩がある。
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さつき火事だと騒ぎましたのは虹でございました
もう一時間もつづいてりんと張っております
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虹が出たら、きっと、だれかに知らせたくなる。
どうしてなのだろう。
人の心は、虹が見せる熱のない炎を、畏れながら慕う。
事実と余裕
この話はそれほど難しいものではありません。
事実は虹が出たという気象現象に過ぎません。
しかしそこに文学的な空想が加わると、現実はあっという間に複雑な空間を作り出します。
「にじ」という漢字に雄と雌があるという事実です。
そこから古代の中国の人達が想像してきた長々と這う生き物の姿が見えます。
しかし雌の「にじ」は歴史の中で静かに暮らしているだけです。
今は雄だけが跋扈しているのです。
ところがその虹も目にできる時間は限られています。
となると、残りは想像する以外にありません。
それだけの心のゆとりがどれほどの人にあるのでしょうか。
誰もが本来持っていた魂の揺らぎを、人々はどこかへ置いてきてしまっているのです。
ちょとした漢字1つの違いがどうということもない事実にすぎない人もいれば、そこからファンタジーを紡ぐ人もいます。
本来はみな、怖れと憧れをもっていたのかもしれません。
しかしそれが次第に遠いものになっていく。
詩人はその瞬間を忘れません。
そして自分の繭の中に大切な言葉をしまいこんでいくのです。
彼女の詩の1部を紹介します。
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。
美しい関係(部分)
蜂になりたい
蜂になって あなたの心に針を刺したい
それで私は死んでしまうけれど
あなたの心臓に 針が入って
血管に乗って 全身に流れてほしい
あなたの中で生きていたい
一生で一度の針を刺したい
あなたが悲しい時も
そばにいたいから