ネット時代
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
随分以前に藤原新也の本を続けて読んだ時がありました。
彼の名前をご存知ですか。
『東京漂流』は圧倒的でしたね。
『メメントモリ』にも刺激を受けました。
『全東洋街道』『印度放浪』もすごかった。
完全に打ちのめされました。
いずれも写真とエッセイを組み合わせた作品ばかりです。
どの写真もこれでもかという気迫に満ちていました。
今、ああいう写真を撮る人はどれくらいいるんでしょうか。
時代がひとりの芸術家を生みだしたのかもしれません。
若い人たちは、どこへ向かって走ればいいのか、全くわからなくなっていたのです。
特に学生運動に深くコミットした人たちは、行き場のない苦しさの中にいました。
どの写真も、おまえはどう生きるのかと刃を向けてきました。
1983年に発表されたのが『東京漂流』です。
タイトルからわかる通り、みんな漂流していたのです。
大宅ノンフィクション賞にもノミネートされました。
彼は拒否しました。
そういう華々しい場所にはふさわしくない自分がいたに違いありません。
『メメントモリ』というのはラテン語で死を思えという意味です。
あの時の写真はすごかったですね。
人間の死体を犬が食べる場面でした。
キャプションには「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」とありました。
渋谷
その後、彼は自分のいるべき場所を懸命に探しました。
渋谷にたむろする若者たちを撮った写真集『渋谷』もあります。
映画化もされました。
この本を読んだのははるか以前のことです。
渋谷を往き来する少女たちにインタビューを試みた本でした。
淡々とした筆致がかえって彼らの日常を丁寧に描き出していました。
いつだったか、ぼくも自分のブログに読後感をまとめた記憶があります。
その彼がいつだったか朝日新聞にコラムを書いていました。
その内容が今も気になります。
骨子は次の通りです。
ブログを書いている人の多さ。
ツィッターと呼ばれるごく簡単な近況報告をしている人々の数。
その中心になっている層が、個人情報の管理にうとく、ほぼ自分を公衆の面前にさらけ出していることに気づいていないという楽天的な現実。
インターネットの普及につれて、個人の関係がますます薄らぎ、そこに息苦しさを覚えている人が増えていること。
あるいは逆に肉体性を回復しようと、つねに実質を持った個人と出会うことを意識して行動している人もまた少なからず存在しているという事実。
要約すればこんな内容です。
さりげなくまとめてありました。
考えてみれば、ブログで日記を発信するということは実に暢気な行為です。
しかし一面では怖ろしいことでもあります。
そこでは思想性、趣味、パーソナリティまでが知らず知らずのうちに明らかにされているのです。
そのことを発信者たちはどの程度の自意識を持って書いているのでしょうか。
もちろん、これはぼく自身にも深く関わります。
無償のメディア
インターネットは基本的に無償のメディアです。
記事を書いて原稿料をもらうという行為とは全く異なるのです。
昨今は雑誌の廃刊が目立ちます。
本も売れません。
1万部売れたら、確実にヒットと言われる時代です。
販売額の伸び悩みは深刻です。
出版すれば必ず売れるという作家は何人もいません。
大量の在庫を抱えて倒産する出版社が出てきても不思議ではないのです。
ネットは確実に人々の生活をかえました。
ものを買うのも今やネットの方がはるかに安い。
店舗展開をしている量販店よりも明らかに安価なのです。
お店に売ってないものを探す手段としてはネット以外にありません。
CDも過去の遺物と化しています。
レンタルも終わり、サブスク全盛になりました。
ことほどさように、文化もネットを頼っているのです。
広告もどんどんネットに流れています。
新聞をとらない家も以前より確実に増えました。
夕刊は風前の灯です。
紙の上に印刷され、推敲された文字と、デスクトップの上に踊る文字との間には、どのような違いがあるのでしょうか。
その信頼性の甲乙はどちらに軍配があがるのか。
そんなことを誰も考えようとはしません。
凄い時代になったもんです。
不思議な明るさ
なんでも人前にさらすという感覚は常識では考えられません。
個人情報をひどく怖れるのに、平気でYoutubeを流す時代です。
自分の飼っているペットから、子供まで、なんでもかんでもが公開の対象です。
そしてそれがお金にもなるという打ち出の小槌をみつけました。
グーグルの誘導にのって、誰もがSEOの検索上位になる努力をしています。
この先、どこへいくのか。
果てしもなく、個人情報がテキストや画像にのって流れていきます。
橋の向こうにはお城が見えるのでしょうか。
とにかく以前とは全く違った際限のない複雑な時代に入ったことだけは間違いがありません。
人間の行動はどういう方向性をたどるのか。
ロシアのウクライナ侵攻も、画面の上では1つの動画です。
サイバー攻撃で、相手の伝達網を破壊することも画策されています。
自分の情報を守るなどという最低限のことも、もうできなくなっているのです。
それなのに、毎日ブログを暢気に書いているというのはどういうことなのか。
自分でもとことん呆れてしまいます。
おのれが漂うサイバー空間の明るさは、そこにのった人間にしか見えないのかもしれません。
個人情報などというレベルを遥かに超えて、趣味嗜好まで全て剥がされていると言っても過言ではありません。
好きな食べ物から、気に入った商品化ばかりが並ぶ画面。
マウスを手に握りながら、私たちはどこへ行けばいいんでしょうか。
あるいは人と繋がれない不安だけが増殖していくのか。
藤原新也が今何を怖れているのかをすごく知りたいです。
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。