【尾崎放哉・海も暮れきる】俳人は孤独と戦った【咳をしても一人】

自由律俳句

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は尾崎放哉の話をさせてください。

読み方は「ほうさい」です。

いったんはエリートコースを歩んだものの、やがて酒に溺れ、最後は小豆島の寺男として死んだ俳人です。

高校では自由律俳句というのをほんのちょっとだけ学びます。

いわゆる五七五の定型ではありません。

季語がなくてもいいのです。

文語で書く必要もありません。

「や」「かな」「けり」などの切れ字を用いなくてもいいのです。

口語で表現されることが多いのも特徴です。

ただし1行詩とは違います。

必ず俳句の定型を意識しつつ、そこから抜け出ようとする意志を大切にします。

1番有名だったのは荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)です。

彼の主宰する俳誌『層雲』で多くの俳人を育て上げました。

その代表が種田山頭火と尾崎放哉でした。

種田山頭火も人気のある人ですね。

今でもたくさんの本が出ています。

「さんとうか」と読みます。

学校で教えるのはこの句です。

分け入っても分け入っても青い山
どうしようもない私が歩いている

山頭火は各地を放浪しながら歩きました。

日本人は放浪する詩人が好きですからね。

なんといってもすぐに松尾芭蕉を思い出すくらいです。

小豆島

『海も暮れきる』を読んでいると、この人とはとても付き合えないなという気分になります。

彼は東京帝国大学法学部を卒業後、今の朝日生命保険に就職し、大阪支店次長を務めました。

エリートコースを進んでいたのです。

それが突然全てを捨てる決断をし、俳句三昧の生活に入りました。

あちこちを転々としながら、寺男などをして暮らしたのです。

最後は小豆島の無住になった寺で、ほとんど極貧の日々を送りました

何がそこまでさせたのか。

annca / Pixabay

それは誰にもわかりません。

吉村昭が取材のために小豆島を訪れると、大変に驚かれたそうです。

なにが面白くてあんな人間のことを書こうとするのか。

甘ったれた人間というだけでなく、金の無心をしたり学歴を鼻にかけたり、本当に迷惑な人物だったようです。

生命保険会社にいる時も勤務態度はあまりよくなかったとか。

酒におぼれたということもあったのでしょう。

なるべくして、この島に辿り着き、やがて朽ち果てる運命だったに違いありません。

小豆島の西光寺奥の院にいたのは最晩年の8か月足らずです。

寺男とは名ばかりで、村の人たちにすがって面倒をみてもらっただけの男でした。

その頃の生きざまを聞けばきくほど、人間の厭な面ばかりが見えてきて、吉村昭も閉口したようです。

それでも、彼を助けてくれた人がいました。

島の素封家で俳人の井上一二と寺の住職です。

やはり俳句の世界で、彼の名前を知っている人は多かったのでしょう。

それだけの資質を持っていたということです。

自然とひとつに

尾崎放哉は極貧のなか、ただひたすら自然と一体となる安住の日を送りました。

俳句を作ることだけが人生だったのです。

癖のある性格から周囲とのトラブルも多く、その気ままな暮らしぶりから「今一休」と称されたとも言います。

その自由で力強い句は今も高い評価を得ています。

代表的な句は高校でも習います。

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咳をしても一人

墓のうらに廻る

足のうら洗えば白くなる

肉がやせてくる太い骨である

いれものがない両手でうける

考えごとをしている田螺が歩いている

こんなよい月を一人で見て寝る

すばらしい乳房だ蚊が居る

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どうでしょうか。

青空文庫で読むことができます。

試しに覗いてみてください。

小豆島にいた僅かの時期に8千もの俳句を作ったといわれています。

放哉は酒を飲まなければ、実に穏やかな人間でした。

しかしいったん酔いがまわると、手がつけられなくなってしまったのです。

やがて不摂生がたたったのか、喉の痛む日が増えました。

咽頭結核でした。

四国はお遍路の通る土地です。

寺にも時折彼らが蝋燭代をおいていってくれます。

放哉のわずかな収入源でした。

しかしそれさえも滞る日が続きます。

様態は日増しに悪化し、やがて臨終を迎えます。

彼が最後につくったという句はあまりにも有名です。

春の山のうしろから烟が出だした

短い生涯

享年42才です。

1人の男の死でした。

放哉は種田山頭火と並んで、現在も大変人気のある俳人です。

その彼の生き様がこの小説には実にみごとに描かれています。

吉村昭は丹念に史実を調べ、正確な物語を書いています。

今までに何度か読みましたが、その度に尾崎放哉という人間の厭な部分が強くあぶりだされてくるような気がします。

終焉の地、小豆島には尾崎放哉記念館があり、隣接する西光寺奥の院に放哉の墓があるそうです。

小説『海も暮れきる』は、海が好きだった放哉にちなんで、放哉の句「障子開けておく、海も暮れきる」から取ったものです。

ご一読をお勧めします。

いつかチャンスがあったら島の記念館にも行ってみたい気がします。

作者吉村昭には4度刑務所を脱獄をしたという伝説の人物を描いた『破獄』などもあります。

映画化もされました。

これもあわせて読んで欲しい傑作です。

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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