着眼点はどこか
みなさん、こんにちは。
小論文添削歴20年の元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は文章を書く時の着眼点について考えます。
課題文が目の前にあるとしましょう。
いよいよ試験が始まりました。
かなり難問のようです。
自分の知らない言葉や内容が溢れています。
もう少し語彙力を身につけておけばよかった。
評論文や新聞などに目を通しておけばよかった。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/10/アリス_1569911055-1024x685.jpg)
もう手遅れです。
ここから60分、あるいは90分。
とにかく答案用紙の9割以上を埋めなくてはなりません。
出題のテーマをどう考えていけばいいのでしょうか。
いくら頭をひねっても何も出てきません。
どうしたらいいのか。
テーマは現代の社会。
まさに目前の問題です。
「資本主義と捨てること」との関係について述べよというのが問題の指示です。
さて何から書いたらいいのか。
いったい何を論じればいいのか。
全く見当がつきません。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2020/01/undraw_personal_goals_edgd.png)
捨てるということは理解できます。
自分にも似た経験があるからです。
しかしそれを資本主義と結びつけるとなると、これはもう悩ましいです。
さてどうしたらいいのか。
どこからまとめればいいのか。
どのような結論にするかというレベルではありません。
目の前の内容をまず考えていかないと、何から書き始めたらいいのかわからないのです。
何が書けるのか
最初に自分の経験を掘り起こしてください。
最近捨てたものはなんですか。
これなら書けますね。
具体的なことです。
難しく考えてはいけません。
去年買った洋服を何着か捨てた。
なぜですか。
いらなくなったから。
なぜいらなくなったのかが解決へのヒントです。
古臭くなったから。
なんとなく今年のファッション感覚とは違うから。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/09/個性_1569306710-1024x1024.jpg)
ここに1つのキーワードがありますね。
なぜ古臭いと感じ、ファッション感覚が合わないと感じたのか。
この問いは個人を超えた共通の感受性の在り方に根ざしています。
いいポイントです。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/08/腕時計_1565659540-1024x652.jpg)
つねに新しい感覚を提供しそれを煽り、流通させようとするのが資本です。
ファッションだけではありません。
私たちが目にするあらゆるものを社会に流し、そして次には古臭いものとして認識させる。
そのスピードは実に冷酷なくらいにはやいのです。
家電、車、パソコン、家具、時計などあらゆるものを考えてみてください。
少しイメージがわきましたか。
自分からの発想
なぜこれほどに新しい商品が次々とデザインをかえて発売されなければならないのか。
品質改良をして、より機能を高めたものも当然あるでしょう。
しかしそれだけではありません。
単純に新しいということだけを前面に出して広告を打ち、販売された商品はありませんか。
どうしてこのような戦略が採用されるのでしょうか。
企業は新しい商品が今の時代にあっていて必要なのだというメッセージをたえず発信し続けなければなりません。
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そのために、今持っているものが古臭くなってもらわなければ困るのです。
たとえ、それがちゃんと機能するものであってもです。
これがまさに資本の論理です。
2つのキーワードがここでやっと繋がったのがわかりますか。
大切なのは何が恰好いいかではありません。
どのような商品ならば素晴らしいものに見せられるのかという物語を創造し続けなくてはならないということなのです。
売り出される商品を1つずつ懸命に見ていくと、機能、形、色、デザインなどが微妙に変わっています。
どのようにすれば売れるのか。
企業と広告代理店は互いに知恵を絞りあいます。
パッケージデザインから商品の中身まで、全てが吟味の対象になるのです。
最終的に商品化が決定したとしましょう。
広告費を大量に投入し、昨日のものよりもより新しい現代の感覚であると消費者に訴えるのです。
失敗すれば、大量の返品が待っています。
理由は単純です。
消費者のモードを読み間違えたということにつきます。
物語の交替
最近のコロナ禍で多くの有名アパレルブランドが消えました。
まさに資本の論理です。
あまり外出する機会がなければ、わざわざ値段の高いブランドの洋服も必要なくなります。
ファストファッションと呼ばれるごく安価なもので十分なのです。
スーツもいりません。
それもこれも販売予測を正確に読み切れなかった資本の論理そのものです。
もう1度最初の問いに戻りましょう。
自分が何を捨てたのかから考えていくことで、その理由がみえてきました。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/09/難易度_1569050393-1024x536.jpg)
何かを捨て去るということは、それが過去のものになったことの証拠です。
何が過去になったのか。
なぜ過去になったのか。
その背景を自分で徹底的に探ってください。
断捨離という現代の言葉もまさにそうです。
ものが豊かでない時代に断捨離という思想はありませんでした。
現在、数着の洋服を捨てても寒暖をしのぐことは十分にできます。
つまり今や着るものは自己表現の手段そのものなのです。
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資本の論理によっていつの間にか、私たちは自分自身の感受性まで曲げられつつあるという事実を追いかけてください。
そうすると、新しいものを売るために資本主義が仕掛けている装置の意味がわかってきます。
それを自分の論理でもう1度組み立ててみましょう。
新鮮ないい小論文になるのではないでしょうか。
どうしても書けない時は自分の周囲を探ることです。
そこに必ず何らかの原因があります。
キーワードが立ちあがってくるのです。
冷静な目を養ってください。
小論文をマスターすることはある意味で大人になるためのワンステップでもあります。
勉強を続けましょう。
最後までお読みいただきありがとうございました。