衰亡の果て
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は古典の中でもよく取り上げられる藤原道隆の娘定子と道長の娘彰子の話をしましょう。
定子(ていし)、彰子(しょうし)と読みます。
現在のような読み方ではありません。
『無名草子』という本をご存知でしょうか。
一巻からなる物語評論です。
作者ははっきりとわかりませんが、藤原俊成女(むすめ)とする説が有力です。
俊成は有名な歌人ですが、その娘の名前はわかっていません。
これだけでも昔の女性の地位がいかに低かったかがよくわかると思います。
古文では娘という文字を使わず、「女」と書くのが普通です。
成立は鎌倉時代初期。
13世紀初頭です。
『源氏物語』をはじめとする物語の評論を中心にし、歌集や女性などの批評を収めています。
高校でもめったにやりませんね。
3年生になって古文の選択授業をとったりすると学ぶくらいでしょうか。
国文科に進みたいという生徒にとっては、定子と彰子の関係には興味や関心があることでしょう。
しかし今は実学重視の世の中です。
プラグマティックな学問に傾いていますからね。
古文の選択授業も風前の灯です。
なぜ一条天皇の中宮定子と彰子に注目が集まるかといえば、それはサロンの構成の仕方にありました。
いわば後宮の風景そのものだったからです。
中宮定子には清少納言、中宮彰子には紫式部という家庭教師兼話し相手がつねについていました。
定子は関白藤原道隆の娘でしたが、道隆が亡くなりかわって権力を握った藤原道長が娘の彰子を中宮にしました。
そして定子の兄の伊周が左遷されるということもあり、道長と彰子が興隆していくのに対し、伊周、定子は次第に没落していったのです。
この藤原兄弟の攻防が、2人の女性の生き方に大きな影を投げています。
読者はそこに人の世の無常を知るという図式になるのです。
無名草子本文
皇后宮、御みめもうつくしうおはしましけるとこそ。院もいと御こころざし深くおはしましける。
失せさせたまふとて、
知る人もなき別れ路に今はとて心細くも思ひ立つかな夜もすがら契しことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしきなど詠ませたまふらむこそ、あはれにはべれ。
後に御覧じけむ帝の御心地、まことにいかばかりかは あはれにおぼしめされけむ。
さて、御わざの夜、雪の降りければ、野辺までに心ひとつは通へども我がみゆきとは知らずやあるらむと詠ませたまへりけむも、いとこそめでたけれ。
おはしまさぬ後まで、さばかりの御身に御目も合はずおぼしめし明かしけむほどなども、返す返すもめでたし。
また、中の関白殿隠れさせたまひ、また、内大臣流されなどして、御世の中衰へさせた
まひて後、かすかに心細くておはしましけるに、頭中将それがし参りて簾のそば、風に
吹き上げたるより見たまひければ、いたく若き女房の清げなる、七八人ばかり、色々の
単襲、裳、唐衣などもあざやかにてさぶらひけるもいと思はずに、今は何ばかりをかし
きこともあらじ、と思ひあなづりけるも、あさましくおぼえけるに、庭草は青く茂りわ
たりはべりければ、「などかくは、これをこそ払はせておはしめまさめ」と聞こえたまひ
ても、宰相の君となむ聞こえける人、「露置かせて御覧ぜむとて」といらへけむこそは、
なほ古りがたくいみじくおぼえさせたまへ。
あらすじと訳
皇后宮(中宮定子)は、お人柄だけでなく御容貌も美しくていらっしゃったそうです。
院もたいそう深く愛していらっしゃいました。
一晩中かわした約束をお忘れにならないならば、私のいなくなった後に私を恋しがってお泣きになる帝の涙の色が見たいものです。
定子さまがおなくなりになるとき、知る人のいない別れ道(あの世)に今は行かねばなりません。
心細いことですが思いを断ちましょうという歌をお詠みになられました。
どうぞいつまでも私のことを忘れないでくださいませとお詠みになったことこそ悲しいことです。
定子さまがお亡くなりになった後で、その歌を御覧になった帝のお気持ちは、ほんとうにどれだけ悲しいものであったことでしょうか。
御葬送の夜、雪が降ったので私は内裏に残るしかないが、心だけは野辺の送りについていきます。
しかしそばに私がついているとは誰も思わないでしょうね、と帝がお詠みになったのも、たいそうすばらしいことでした。
お亡くなりになった後まで、悲しさのあまり夜もおやすみになれず、思い明かされたことなども、なんともすばらしいことです。
また、中関白(定子の父親道隆)がおなくなりになって、内大臣(定子の兄伊周)が流されたりなさって、ご実家の威勢が衰えられてからは、定子さまは肩身も狭く心細くていらっしゃいました。
頭中将のなんとかという人が御殿に参上して、御簾が横からの風に吹き上げられた隙間
から部屋の中を御覧になったところ、たいそう若い女房のきれいなのが、七八人ばかり
いて、いろいろな単襲、裳、唐衣など鮮やかな装いでいたのも、思いがけなく、没落し
た今となっては何の興趣あることもないだろうと、あなどっていたのも浅はかだったと
思ったのでした。
庭の草が青く茂るにまかせてあるので、「どうして これほどに草が茂っているのでしょうか。
この草を刈り取ってお住みになればいいのに」と申し上げなさったところ、
宰相の君といっていた女房が「定子さまが、草に露を置かせて ご覧になろうとして刈ら
ないんですよとこたえたのは、なお昔のままの気品を持ち続けていらっしゃり、さすがだ
と思われたのでした。
定子の命
定子は正暦元年(1990年)、数え14歳の春に、3歳年下の一条天皇に入内しました。
当時としてはごく標準的な結婚年齢ですが、年下の天皇との結婚だったのです。
その後、一条天皇の第一皇子を出産。
天皇の喜びは大きいものでした。
まさに相思相愛の仲です。
しかしその前に自分の長女彰子をなかば強引に入内させていた藤原道長は焦りました。
なんとか次の天皇候補をもうけねばと考えたのでしょう。
彰子の立后を謀ります。
東三条院の支持もあって、長保2年(1000年)、女御彰子が新たに皇后となり「中宮」を号します。
先に「中宮」を名乗っていた皇后定子は「皇后宮」となります。
史上はじめての「一帝二后」です。
同年の暮れ、定子は第二皇女を出産した直後に崩御したのです。
年齢はわずかに24歳でした。
生前の希望から鳥辺野に土葬されたといわれています。
鳥辺野陵(とりべののみささぎ)がそれです。
定子がいなくなれば、もう道長の天下です。
一条天皇も隋分と道長には気を遣っていたようです。
しかし結局は力で押し切られてしまいました。
やがて彰子の生んだ子が次の天皇になったのです。
長和5年(1016年)に敦成親王が後一条天皇として即位し道長は念願の摂政に就任しました。
道長の出家後、彰子は一門を統率し、宇治の平等院を建立した頼通らと協力して摂関政治を支えたのです。
数奇な運命をたどった女性といっていいでしょうね。
彰子はなんと87歳まで生きました。
当時としては信じられないくらいの長命でした。
こうしてみると、定子の生き方と彰子のそれはかなり違ったものです。
『無名草子』の作者が皇后定子をすばらしい女性であると絶賛する理由として、夫の一条天
皇に深く愛され、逆境にあっても優雅に暮らし続け、皇后としての気高さを失わなかったこ
とを挙げています。
その定子に仕えた清少納言は代表的な随筆『枕草子』の中で深い敬愛の念を示しているのです。
どうしても人の世の無常を感じないわけにはいきません。
権力は非情なものですね。
清少納言がどれほど定子を大切にしたのか。
彼女のためになんでもしてあげたいと考えていたのも、『枕草子』を読んでいるとよくわかります。
どうぞご自身で文章をいろいろと読んでみてください。
興味が次々に広がると思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。