六代目伯山襲名披露
みなさん、こんちには。
アマチュア落語家、すい喬です。
今回は神田松之丞あらため六代目神田伯山の襲名披露公演の話をさせてください。
現在、披露興行の真っ最中です。
新宿の末広亭から始まり10日間を無事に乗り切りました。
連日ものすごい盛況で、2階までお客様でぎっしり。
その様子はyoutubeの伯山TVで見ることができます。
今まも真打の披露口上を何度かyoutubeで見てきましたが、これだけの規模で映像を流したことはなかったと思います。
マスコミでの扱われ方も前代未聞です。
やはり芸人は売れてなんぼというところがあります。
しかし昇進披露パーティの様子からはじめて10日間の興行全ての様子を流したということはなかったです。
ものすごい情報量には驚きました。
これも時代なのかなと思います。
パーティの準備段階から、手伝いの人へのご祝儀の手渡し方に至るまで、克明に追っていきます。
さらに新宿末広亭に集まった芸協の噺家や芸人さんたちの日常の様子がそのままリアルに描かれています。
襦袢一枚になって着替える様子から、じっと高座を心配そうに見守る師匠神田松鯉の様子まで、取材の仕方が丁寧です。
楽屋を飛びだし、高座に上がるまでの芸人たちの緊張感まで伝わってきます。
さらに口上の様子が実に楽しいのです。
最近はそれぞれの真打披露にあわたせた味わいの深い映像が多くなりました。
その中でも今回の伯山襲名に対する力の入れようは並々のものではありません。
落語ならば、ここまで真剣に応援しなかった噺家たちも、講談というもう1つ別の世界の話だけに、乗りやすかったようです。
伯山自身の芸風もあまり他の人とバッティングしないということもあったかもしれません。
芸人の世界はそれぞれがみな一匹オオカミです。
誰かが飛び出せば嫉妬も生まれやすいのです。
その意味で最初の10日間を乗り越えたことは大きな自信になったにちがいありません。
現在も襲名披露の様子は毎日流れています。
興味のある方はご覧になってください。
中村仲蔵という噺
伯山は初日のネタに「中村仲蔵」を選びました。
そして昨日、浅草演芸ホールに場所を移しての初日にも「中村仲蔵」を演じました。
よほど思い入れのあるものに違いありません。
実はぼくもこの噺はやります。
歌舞伎を代表する「忠臣蔵」を題材にした作品です。
圓生師匠の型で覚えました。
その後、さん喬師匠,正蔵師匠のも少しだけ中に入れています。
現在では「忠臣蔵」といってもどれだけの人に受け入れられるものなのでしょうか。
落語にはもう1つ有名な噺に「淀五郎」があります。
これは古今亭志ん生などが好んでやりました。
ぼくもこれは自分のものにしたいと思っています。
現在では春風亭一朝師の型が1番好きです。
さて忠臣蔵を代表する「中村仲蔵」とはどんな噺なのでしょうか。
旧態依然とした身分社会の中を駆け上がっていった仲蔵という実在の人物を取り出して落語にしたものです。
「忠臣蔵五段目」の山崎街道の場は俗に弁当幕と呼ばれる退屈なだけのところでした。
そこに登場する斧定九郎という役にまつわる話なのです。
現在もそうですが、歌舞伎の世界はどの家に生まれたかで出世が決まります。
由緒ある家系に属さない役者はいくら努力しても所詮、端役止まりです。
俗にいう大部屋俳優です。
歌舞伎の世界では下立ち役、あるいは稲荷町と呼びます。
このあたりをきちんと説明して、仲蔵がどれほど苦労して名代にまで駆け上がったのかということを説明します。
団十郎に見いだされ、なんとか看板役者になれたものの、与えられた役は五段目の斧定九郎でした。
このあたりには狂言作者にどう扱われるかという人間臭い側面もあります。
必死の役つくり
誰一人芝居なんか見てくれない弁当幕の芝居にどうしたら客の目を引き付けられるのか。
最初はやめてしまおうと思ったものの、妻にとめられ、柳島の妙見様に願掛けをします。
ところがなんにもいい考えは浮かびません。
ところが雨が突然降りだし、飛び込んだ蕎麦屋で見た旗本の形が実によかったのです。
蕎麦屋に入ってきたのは年が二十八,九歳の武士。
色は白い痩せ型の男です。
伸びた月代からはしずくが垂れています。
黒羽二重の尻をはしょり、朱鞘の大小に茶献上の博多の帯。
その帯に福草履を挟んでいました。
破れた蛇の目の傘を半開きにして入って来たのです。
雨を絞った時の袖から雨がしたたり落ちます。
その様子。
これが本当の斧定九郎の形だと見極めるのでした。
それまでは頬っかぶりで山賊のような恰好をした定九郎の型しかなかったのです。
当時は自前ですべての衣装から小道具までを役者は揃えました。
仲蔵は工夫をして、とのこを縫って赤黒くしていた顔まで、白塗りに変えました。
さらに卵の殻に蘇芳紅をいれたものを口の中に含んで、それを勘平の鉄砲で撃たれた時に噛んで血を流す演出を加えるのです。
出番の前に湯殿で水を浴び、上げ幕のそばにおいておいた傘に水をつけ、それをパッと開いて花道を駆け抜ける演出も入れます。
次々と取り入れた新しい趣向は、観客の度肝を抜きました。
しかしあまりに静かで客席にはなんの反応もありません。
観客は驚きのあまり、声を上げることもできなかったのです。
仲蔵は失敗したと勘違いし、大急ぎで家に戻りしばらく上方へ身を隠すと妻に話します。
そして芝居をみた客同士の会話をふと日本橋まで行った時、耳にするのです。
今日の仲蔵はよかったぞ。
あれが本当の旗本から成り下がった男だよ。
あの芝居をみて俺は涙が出てとまらなかった。
明日も見に行くぞ。
仲蔵から淀五郎へ
嬉しい言葉を耳にしていったん家に戻ると、そこに師匠中村伝九郎からの使者が…。
慌てて出かけると、しくじったと思っていたのは仲蔵1人だけ。
大変なお褒めの言葉が待っていました。
今日の芝居の型はこれからの五段目の斧定九郎になるぞ。
末世まで残るだろうよ。
よくあそこまで考えたな。
お前の師匠は俺だぞ。
よく我慢してくれた。
おまえのような弟子を持っておれは本当に嬉しいよ。
この後、仲蔵の名声はますます高まっていきます。
安永9年には中村座の座頭に出世し、寛政2年に57歳で亡くなったのです。
実はこの中村仲蔵が次に活躍するのが「淀五郎」という噺なのです。
澤村淀五郎も自分の芝居ができず、もう死んでしまおうと思って最後の挨拶に行ったところを仲蔵に助けられます。
名代になれたのが嬉しくて、腹を切る主役をもらっても心がその役になりきれません。
それを苦労人の仲蔵に見抜かれるのです。
そしてどうやって腹を切れば、本当に悔しくて死んでいく人間のつらさを表現できるのかを教えてもらうのです。
翌日に上出来の判官を演じ、淀五郎も見事に面目をほどこします。
どちらの噺も芸というものの奥深さを示した名作です。
現代に「忠臣蔵」の話がどこまで通じるのかはわかりませんが、芸道の噺として聞く限りにおいては十分に感情移入ができるのではないでしょうか。
もともとは講釈ネタなのかもしれません。
しかし落語と講釈の垣根がこのようにして、次第に柔らかな形でそれぞれにふさわしく変形していくのはすばらしいことです。
六代目神田伯山が新宿と浅草の初日に「中村仲蔵」を演じたという話は、講談師としての生き方の覚悟を示したと思います。
それだけの重みあるネタです。
ぼく自身もこれから「中村仲蔵」「淀五郎」をしっかりと覚えていきます。