落研のイメージ
みなさん、こんにちは。
アマチュア落語家のすい喬です。
落研と聞いて、どんなイメージを浮かべますか。
暇な学生のサークル。遊び人の集まり。
中心はもっぱら大学生ばかりです。
いま、活躍している咄家には落研出身の人がたくさんいます。
ちょっとだけあげてみましょうか。
春風亭昇太 – 東海大学落語研究部
立川志らく – 日本大学芸術学部落語研究会
春風亭一之輔 – 日本大学芸術学部落語研究会
柳家喬太郎 – 日本大学経商法落語研究会
立川志の輔 – 明治大学落語研究会
桃月庵白酒 – 早稲田大学落語研究会
これはほんの一部です。
関西まで含めたら、とんでもない数になるんじゃないのかな。
もっとも噺家に弟子入りすると、落研くささを徹底的になおされるそうです。
妙なクセをもっていて、とても聞くに堪えないとよく師匠方は言います。
いかにもうまそうに聞こえる話し方とでもいうんでしょうか。
小さめの声で、間の取り方も気取っていて聞いていられないのだとか。
さて東京だけでいったい何人いるんでしょう。
しかしこれはあくまでも大学の落研の話です。
ここからが今回のトピックスです。
それはなあに。
実は高校の落研はどうなのかという話です。
高校の落研出身者で一番よく知られているのが、あの春風亭一之輔です。
21人を抜いて真打ちになってから、もう随分と月日がたちました。
今や、人気絶頂の噺家です。
彼は埼玉県立春日部高校の落研部員だったのです。
埼玉県でも有数の進学校です。
ご存知ですか。
彼はある日、校内をぶらぶらと歩いていました。
すると、その時休眠状態だった落研の部室を偶然発見したのです。
いったい中に何があったのか。
先輩達が残していった落語のテープや台本が乱雑に散らかっていたそうです。
その後、部活をたった一人で再開しちゃったのです。
高校ではさすがに珍しいかもという話でしょ。
都内の高校にもないのかなと探してみましたが、ないことはなかったです。
でも吹奏楽部やダンス部みたいにハデじゃないしね。
男子校には今でもいくらか残っているみたい。
なんとなくネクラな少年達の安住の地のような印象もありますね。
オタク王国かな。
鉄研といい勝負なのかも…。
元々あったとしても、落語は個人の芸ですから、卒業しちゃうと後に続く部員がいなくなるということもありますからね。
誠に不安定至極な部活と言えます。
さて再び今回のテーマです。
これは教員生活最後の頃の話です。
60歳で一度退職したその後。
授業は週に10コマ程度。以前とは違い、まさにご隠居さんみたいなもんでした。
年金がちゃんと出るまで、少しだけいてもいいよというスタンスでしょうか。
同じような境遇の成年男子が3人。
物理準備室に集められました。
他に部屋がなかったんだから仕方がない。
しかし隣には大きな物理講義室がついておりました。
これが後に大きな意味を持つのです。
さて毎日、なんだかんだと用事があり、とっても楽しかったです。
教師というのは、一緒に生徒と遊んでいられるだけで、結構日々が充実してしまう不思議な職業でもあります。
授業だけでは物足りない
毎日授業をちゃんとしました。
現代文に古文、それに漢文も。
それはそれで楽しかったんですけど…。
でもなんか物足りない。
スパイスが欲しい。
やっぱりクラブ活動かな、と思ってはみたものの、何しろご隠居さんですからね。
そうそう出しゃばっちゃいけません。
静かにしてないとね。
でもなんか始めたい!
そこで考えたのが、同好会の旗揚げでした。
これなら顧問が1人、生徒は5人いればよろしい。
ぼくは後ろに回って、誰か引き受けてくれそうな先生を見つければ始められるのです。
よし、これでいこうと決めました。
まず部員の勧誘だ。
1年生の授業へ行くたびに、ねぇ、落語やらないと甘い猫なで声をだしました。
反応は超ビミョー。
ヘラヘラと笑われておしまいです。
これには参ったよ!
しかしそんなことでめげてちゃいけません。
時に授業をストップして、お蕎麦を食べる仕草のパフォーマンスまでしたのだ。
あの「時そば」です。
一月ぐらいした頃、やってもいいという男子が一人現れました。
ぼくが気の毒にみえたのかなあ。
同情票ですかね。
しかしこっちも目的のためには手段を選んでいるゆとりはありません。
もう一人連れておいで!
やがて男子がもう1人釣れました!
その後に女子が一人。
とうとう3人になりました。
まだ同好会には足らないけど、とにかくやらねばならぬ。
楽しみが増えました。
最初は小咄から。
右を向いたり、左を見たり。
噺家の言葉で、上下を切るといいます。
すごく難しいのです。
大きな声を出して、堂々と。
少し恰好がついたら、もう少し長めの噺を印刷して渡します。
子ほめ、つる、牛ほめ
このあたりがオーソドックスなところかな。
毎日放課後においで。
ところがそんなにうまくはいきません。
生徒はいろいろと忙しいのです。
それでも焦らずにぼちぼちと…。
1人でも来たら、すぐに隣の物理講義室へ。
その場でやらせます。
繰り返し繰り返し。
だんだんいい感じになってきます。
こうなったら必要なものを揃えなくてはならぬ。
最初は予算なんてありません。
全部自腹だ。
近くのホームセンターへ行って、座布団、半畳の薄い敷き畳。
書店で「かまわぬ」というブランドの手拭いを買ってきて。
さて高座用扇子は…。
なんにも書いてないあの真っ白の扇子です。
見たことありますよね。
これは浅草に行った時に買っておいたのがありました。
雷門に向かって左の細い道をまっすぐ1分くらい歩いたところにある「荒井文扇堂」のがよろしい。
仲見世にもあります。
ここまであれば、当分活動はできると踏みました。
最初の落語会
とにかくやろう。
高座にあがれ。
お客をつれて来い。
日暮里のトマトという生地屋さんをネットで探し、赤い毛氈もゲット。
このお店は洋装関係の学校にいる人なら知らない人はいないという、極めつきの場所です。
なぜかあの緋毛氈にのっかるといい気分なのです。
学校のマイクとアンプも借りました。
まだ正式に旗揚げしたわけじゃないけれど、ゲリラ的にやるくらいなら、勘弁してもらえるだろうと勝手に判断した次第。
お囃子のCDも自前です。
これはNHKが製作した極めつきのもの。
ラジカセは英語の先生に借りました。
お客はクラスの友達だけで十分。
とにかく3人がそれぞれ噺をしました。
みんな初めての経験で、すごく緊張したと思うけど…。
着物もそれぞれに。
浴衣でいいからね。
なければ、ぼくのを貸してあげる。
男子は帯なんか締めたことがありません。
結局2人とも準備室でうんうん唸りながら、最後はギブアップ。
「貝の口」などという締め方の名前だってはじめて聞いたに違いありません。
帯の結び方がどうしてもわからず、何度もぐるぐる回って…。
うまくできずに、とうとうお手伝いしました。
さていよいよ、お囃子に乗せられて高座へ。
笛と太鼓と三味線と。
いいもんですね。
さて名前はどうなったのか。
これもみんなで考えました。
知り合いが作ってくれためくり台。
高座名を筆で同僚の先生が書いてくれました。
これで全部完了です。
この時のことは実に懐かしいですね。
今でもいい思い出です。
その翌年、いよいよ新一年が入ってきました。
集中的に攻撃をかけ、ついに部員数が5人を突破。
その年の5月、ついに念願の同好会が発足したのです。
趣意書もみんなで作りました。
ついに秋の文化祭出演も決定。
プログラムに載りました。
予算がついたので、提灯もたくさん買いました。
紙のは高い。
最近はビニールでできた安いのがあります。
これもネットで。
寄席のために、生徒部の先生がお客さんの通る2階の階段脇の通路のある部屋を押さえてくれました。
以後3年間ずっと、1日2回興行。
1時間の拡大版。
午前と午後に全員出場いたします。
生徒はすごいハードスケジュールの中で、よくがんばりました。
お客様の拍手が命です。
毎日、たくさんいらしてくださいました。
毎年楽しみにしてるのよ。
うれしいお言葉です。
ぼくも2日間で4席つとめました。
部屋の中に寄席文字フォントでつくった高座名のプリントを貼り、気分は最高潮。
お客様の呼び込みもお手のものです。
毎年新入生が入ってくれたおかげで、潰れることもなく続きました。
途中から転勤していらした女性の先生も顧問を引き受けてくれました。
彼女も落語大好き人間。
英語落語に挑戦して「動物園」をやった生徒。
「平林」や「まんじゅうこわい」「雛鍔」にも挑戦しました。
プロになろうなんてとんでもないことを考えた生徒はおりません。
あたりまえ。
それでいいんです。
彼らは成長しました。
落研はけっしてオタクのサークルじゃないですよ。
終演後の打ち上げはお茶とお菓子で。
しばらくぼくの与太話にお付き合いいただき、謹んで御礼申し上げます。