太宰治・名作津軽は屈折した故郷への愛と自虐的な作家魂の結晶である

富嶽百景

みなさん、こんにちは。

教員歴40年の元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は学校で何度か教えた太宰治の小説『津軽』を解説します。

今、小説と書きましたが、その性格はかなり曖昧です。

ルポルタージュともいえば言えます。

旅行記の一種です。

しかしその筆致はやはり小説家のそれです。

ただのご当地案内ルポではありません。

そこがこの作品の魅力なのです。

太宰治の作品は多く教科書に載っています。

一番はなんといっても中学校の定番、『走れメロス』です。

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人を信頼するとはどういうことかという非常に道徳的な内容を扱っているので、教科書に採択されたのでしょう。

しかしぼくの目からみると、この作品は太宰治でなくても書けたと思われます。

どうしても太宰的な要素を孕んだ作品で教科書に載ったものは何かと探してみました。

『富嶽百景』です

この作品をはずす訳にはいきません。

ぼくも何度か授業でやりました。

人間というものが信じられなくなっているときに出会った富士の雄大な姿。

その描写が見事です。

太宰は昭和13年、師の井伏鱒二が滞在する、甲州御坂峠の天下茶屋に身を寄せます。

そこは富士がよく見える場所でした。

しかし富士に対してもどこか素直になれない彼は、次第に自分との対話を通し、少しずつ思いを変えていきます。

やがて見合いをし、結婚を決意します。

それは新たに生きなおそうとする彼の決意のあらわれでもありました。

全編が実にすがすがしく、心地のよい小説です。

作中の「富士には月見草がよく似合う」という表現が有名です。

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この時の見合い相手、石原美知子が後の太宰夫人なのです。

教科書に載った彼の作品には他に『猿ヶ島』『女生徒』『清貧譚』『水仙』『トカトントン』『桜桃』などがあります。

どれも味わいの深い小説ばかりです。

個人的には『女生徒』が懐かしいですね。

いかにもかつての女学生の細かい心の内側に入り込み、その揺れる心情をうまく表現しています。

女子の生徒が、よくここまで女性の心理がわかると驚いていました。

『桜桃』なども懐かしいです。

彼の亡くなった日を今でも「桜桃忌」と呼んでいることはご存知ですか。

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この小説のタイトルから来ているのです。

ここにはあげていませんが、かなり以前に教えた作品の中で一番強い印象を持っている作品がこれから解説する『津軽』です。

教科書で読んだのはかなり以前のことです。

最終章の最も有名な運動会のシーンは忘れられません。

しかし今から10年ほど前、津軽半島を車でほぼ走破した後、もう一度最初からじっくりと読み直しました。

どうしても金木村にある太宰治の生家を見学したかったのです。

それと同時に、津軽という土地がどのような場所なのかを自分の目で確かめたいと思いました。

太宰が『津軽』に書き残した土地は全てみたいと願ったからです。

実際に自分の目で津軽の人の生き様をみた時、太宰治という人の持つ東北人気質が少しだけわかったような気がしました。

外の人間に対してのものと、内の人に対する接し方には全く違うものがあります。

また津軽で津島家(太宰治の本名は津島修治)の持つ意味も理解できたつもりです。

そのことを少しここに書かせてください。

太宰治という人

太宰治こと、津島修治が生まれたのは1909年。

青森県北津軽郡金木村に、県下有数の大地主である父津島源右衛門の六男として生まれました。

父は県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員などをつとめた地元の名士です。

津島の家は金木村では豪農でした。

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当時は多額納税者は自動的に貴族院議員(現在の参議院)になれたのです。

父は仕事、母は病弱という環境のため、生まれてすぐ乳母に育てられます。

この時から母親の愛情を満足に知らず、3歳から小学校入学までは女中たけが子守りを務めました。

彼にとって事実上の母親は子守のたけだったのです。

金木の家は今でも斜陽館という名前で残っています。

『斜陽』は彼の代表作です。

家をみれば、津島の家がどういう家格だったか、すぐにわかります。

広い敷地に建てられた立派な家です。

上等な内装を見ると、太宰のおかれた位置を理解できます。

しかし彼は豪農の息子に生まれた自分をどこかで恥じる感覚を持っていました。

それが後の放蕩生活につながります。

兄はそれでも多額の生活費を送り続けてくれました。

罪深い自分を恥じながら、それでも兄にすがらざるを得ない自分を情けなく感じたに違いありません。

津軽

『津軽』は厳密にいえば小説ではありません。

自分のアイデンティティを求める旅の記録です。

津軽に生まれた自分は何者なのかということを、もう一度確かめたかったのです。

この作品は不思議な明るさに満ちています。

彼の他の小説などとは全く毛色が違い、どことなく浮き足立ったところもあります。

全てが津軽という土地を旅するという目的に集約されたからかもしれません。

懐かしい土地だったのです。

故郷の山や川、そして海は彼を裏切らなかった。

そんな気がします。

懐かしい人々と再会するのが目的でした。

東京発 – 青森経由、蟹田泊 – 三厩泊 – 竜飛泊 – 蟹田泊 – 金木泊(生家) – 五所川原、木造経由、深浦泊 – 鯵ヶ沢経由、五所川原泊 – 小泊泊 – 蟹田泊 – 東京帰着

これが全コースです。

途中、蟹田に何度か泊まっています。

蟹田で出会ったのは中学時代の友人である中村くんでした。

彼は東京へ出てきたものの、やがて帰郷。

その後は蟹田の町会議員となり、蟹田になくてはならない人物となっています。

圧倒的な熱量で彼を迎えてくれたかつての友人達を目の前にして、太宰は心から嬉しくなります。

これほど自分が友人達に、さらにいえば津軽という土地に愛されていたのかと再認識させられました。

この旅の目的は「津軽人としての私を掴むこと」です。

しかしそんな彼も金木の生家では、気疲れがします。

特に長兄との会話はつねにぎごちないままでした。

長兄文治はいつも太宰の起こす不祥事の後始末にまわってくれたのです。

頭が上がらないというのが本音だったのでしょう。

この場面の描写には息苦しさがあります。

兄との間に入った心のひびは結局修復できないままでした。

「ひびのはいった茶碗は、どう仕様も無い。どうしたって、もとのとおりにはならない。津軽人は特に、心のひびを忘れない種族である。」

この記述が全てを物語っています。

乳母たけとの再開

教科書で『津軽』をやるというのは、つまりこの部分の記述があるからなのです。

教科書にはたけとの再開の場面しか収められていません。

しかしこの章を読むと、太宰とたけとの愛情の深さがいやというほど感じられます。

どうしても津軽の旅をしたかった彼の心の内を想像すると、痛いぐらいのつらさを感じます。

愛に飢えていた少年時代を支えた乳母たけの存在の重さがよくわかります。

「或る朝、ふと眼をさまして、たけを呼んだが、たけは来ない。はっと思った。何か、直感で察したのだ。私は大声挙げて泣いた。たけいない、たけいない、と断腸の思いで泣いて、それから、2,3日、私はしゃくり上げてばかりいた。」

朝一番の汽車で小泊に着きます。

たけの家を見つけたものの、南京錠がかかっていました

どこかへ出かけたのだと諦めたものの、筋向いのタバコ屋に聞くと運動会へ行ったとのこと。

運動場を二度まわりますが、たけを発見できず縁が無いと思い帰ろうします。

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ところが家の前で偶然にもたけの子供を見つけた私は、その子供にたけのところへ連れて行ってもらうよう懇願します。

そしてやっとのことで、たけと再会します。

「あらあ」と言い、「さ、はいって運動会を」と言って、たけの小屋に連れて行き「ここさお坐りになりせえ」とたけの傍に座らされます。

「けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまっている。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に一つも思うことが無かった。もう、何がどうなってもいいんだ。」

これが小説『津軽』のクライマックスです。

この後、太宰は乳母のたけから何度も金木村を訪ねた時の話をききます。

胸の熱くなる記述がずっと続くのです。

『津軽』は小説なのか、ルポなのか、ぼくにもよくわかりません。

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しかし名作です。

狂ったように運動会の会場をめぐり、放送までしてもらおうかと考え、偶然たけの子供に出会うシーンは、本当に読んでいる者をほっとさせます。

そこまで感情移入してしまうのです。

生きた文章というのはこういうもののことをいうのでしょう。

太宰治の作品の中ではこれ一作だけが妙に明るく、他の小説とは全く毛色が違っています。

是非、手にとって読んでみてください。

きっと津軽という土地のファンになります。

後に自殺して自らの命を絶ってしまうような太宰の風貌を、この小説に見てとることはできません。

最後までおつきあいいただきありがとうございました。

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