全73興行通い詰め
みなさん、こんにちは。
アマチュア落語家で元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回はいつもの雰囲気とガラリ変わりまして、とんでも本を一冊紹介させてください。
といっても好きな人なら、誰もが一度は夢見ることですけどね。
しかし普通は実行するだけの暇もお金も体力もないのかな。
このあたりが本音でしょう。
ちなみに現在、東京には常打ちの寄席が4軒あります。
浅草、池袋、新宿、上野。
すぐにそれぞれの小屋の名前が出てくる人は相当のご通家ですね。

その中でもひときわ情緒のある建物が、新宿末広亭です。
写真をみれば、その凛とした佇まいがよくわかります。
個人的な話をすると、ぼくはここからそれほど離れていないところに10歳まで住んでいました。
懐かしい時代のいい思い出です。
さて、この寄席では毎日、昼の部と夜の部に演芸をやっています。
落語はもちろん奇術、漫才、講談、浪曲なんでもありです。
昨今は活弁も大人気ですね。
とにかく1年中、休みがない。
それだけでもすごいです。
プログラムが10日ごとにかわるので1か月で6番組となります。
落語協会と落語芸術協会が交互に出演しています。
芸人たちはこの興行のことを芝居と呼んでます。
1月だけはお客さんがたくさん入るので、特別に3部構成で番組を組みます。
合計すると1年に73の芝居があるということになります。
ところが、これを全部見てやろうなんてフツウの人は考えません。
みなさん、仕事があって大変忙しいのです。
というか、あの椅子に昼から夜まで座っていたら、身体がコチコチになります。
しかし寄席好きにはパラダイスなんでしょうね。
おまけに自分の好きな席もきまっていたりして。
とにかく半日以上も入れ替えなしで、過ごせる場所であることは確かなのです。
長井好弘
さてこの本の話です。
6月30日に朝日新聞出版からでたばかり。
著者は有名な演芸評論家、元読売新聞記者の長井好弘さんです。
しかしこの名前を聞いただけで、あの人かとわかる方は、もう明らかに別格ですね。
よほどの落語好きでもない限り、知らないのが普通かもしれません。
「都民寄席」に一度でもいったことのある人ならご存知の可能性もあります。

これは1970年から始まった都民芸術フェスティバルの公演に寄席も組み込まれて始まった催しなのです。
寄席の人気が低迷することのないよう、落語に親しむ人々を増やしたいという主旨から始まりました。
なんといっても無料というのがいいですね。
なにしろタダですので、応募もかなりのものだそうです。
おかげさまでずいぶんと通わせてもらってます。
そこに登場する長井さんの解説は実に洒脱で、味わいがあります。
落語が本当に好きなんだなというのが、聞いていてすぐにわかるのです。
ちょっとした蘊蓄を実にサラリと話してくれるので、江戸の昔にすぐワープできるというワケです。
本の横顔
この本は長井さんが2024年10月から2025年の6月までの1年間、新宿末広亭に通い詰めた記録です。
本人も言っている通り、汗と涙と暇つぶしの記録です。
かつて1999年にも同じような本を出版したとか。
その時はまだ記者の仕事をしていたので、心筋梗塞になりかけたそうです。
すごい気力ですね。
それを今度は25年後に再び、実現したというのです。
定点観測というからには、自ずからルールが必要になります。
それがこの4つです。
①前座からトリまで全部見る。
②どうしても事情があって遅れた場合、最初の若手2人までは勘弁してもらう。
③客席から見える範囲のものだけを書く。楽屋などは覗かない。
④メモは取るが演者の迷惑にならないようにする。
どうですか、この覚悟のみごとなこと。

覚悟なら、ないこともないと漱石なら、つい呟いてしまいそうです。
わかりますか、これ。
名作『こころ』の中に出てくるセリフです。
一般的な話をすれば、芸人に対する感想や、寄席の雰囲気だけを伝えているとだんだんつらくなります。
噺を聞いていどうしてもダメだったら、楽屋ネタでも挟み込めば、かなり表情も違ったことでしょう。
しかし彼はそれをしなかった。
あくまでも芸人とは一線を画して文章を書こうと決めたのです。
その結晶がこの本です。
全部読み切るのに2日半かかりました。
もちろん、ここに登場する噺家や漫才師などを全て知っているわけではありません。
しかし、ぼくも結構寄席には通ってはいます。
アマチュアとはいえ情報はそれなりにもっているつもりです。
昨今はyoutubeなどもありますので、楽屋の様子にも、かなり親近感があります。
また知り合いの噺家から耳にする近況なども、他の人とは少し違うかもしれません。
落語の会の仲間には、かなりの頻度で寄席通いをしている人もいます。
最新の情報はあちこちから届くというのが、強みでしょうか。
芸人にあたたかい
長井さんのすごいところは芸人にあたたかいところです。
とにかく優しい。
前座からトリをとる大看板にいたるまで、とても親身なのです。
その態度は落協にも、芸協にもいえます。
この2つの協会の性格はかなり違います。
登場する芸人たちの日々の様子がまるでそこに自分がいるかのように感じられるから不思議です。
完全にバーチャルですね。
もっとすごいのは最後の索引です。
ここに登場した芸人の名前と、その書かれているページが全て網羅されているのです。
ぼくが噺家だったら、そこにどんな表現で描かれているか、すぐに見たくなります。
悪口はないです。
こうやったらこうなるのにという建設的な書き方ばかりなのです。
だから素直に自分への批評を受け入れられますね。
楽屋がうるさいとか、団体に出す弁当の時間をもっと気にしろとか、換気のタイミングにまで、彼の愛情が響きます。
桟敷席が少し斜めになっていることなど知りませんでした。
ちなみに一番多く登場する演者は誰だと思いますか。

つい数えちゃいますよね。
講談の神田伯山が23回、師匠の松鯉が19回、浪曲の玉川太福が15回、噺家では春風亭一之輔が14回でした。
芸協の看板は今や、二階席までいっぱいになるという神田伯山といってもいいのではないでしょうか。
松之丞の頃からみてますけど、本当に押しも押されもせぬ大看板になりました。
定価が3300円もしますので、ちょっと手が出ない本ではあります。
しかしここには間違いなく令和の寄席が色濃く映し出されています。
ぜひ、手にとってみてください。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
